■対馬(つしま)丸の2日前の船で宮崎に疎開
私は戦争前(1944年)には数え14歳で、大里第二国民学校(現在の大里南小学校の前身)の高等科2年生だった。その頃は父の実家(屋号 新屋)で、父の長兄(永昌)に預けられていた。
当時は真境名(まじきな)にも武(たけ)部隊が駐屯(ちゅうとん)していて、新屋の離れにも1人の中尉(ちゅうい)が間借りしていた。この部隊は精鋭部隊で、のちに台湾に移動になった。また各家庭用の壕掘りもしたが、夏に疎開に行ったため軍の壕掘りをしたかどうかは覚えていない。
私は従兄の永徳(永昌の長男)の妻であるシズエ(私はアンマーと呼んでいた)と、その息子の永吉と一緒に3人で、宮崎県児湯(こゆ)郡木城(きじょう)村(現 木城町)の川原(かわばる)に一般疎開をした。真境名からは、屋号前(メー)や東新屋、前東門、仲本など9所帯ほどが一緒に疎開していた。
乗った船の名前は思い出せないが、対馬丸の2日前に出発した ※1。当時は鹿児島県に着くまでに6日間もかかっていた。
■甲板で見張り役をさせられる
14歳だったため、船では甲板(かんぱん)で椅子に座ってベルトを締め、双眼鏡で前後左右の見張り役をさせられた。ある程度の距離の見当をつけるため、「地平線はだいたい4キロメートル、あの辺は何キロメートル」という風に覚えさせられた。夜などは暗くて全然見当がつかなかった。
任務に就いているときの食事は贅沢(ぜいたく)で、白米のご飯におかずが付いていた。乗組員の食事はおかゆが中心だった。
船には護衛艦がついていたが、「沈められた時には、男は鼻と口と急所、女は鼻と口と胸を押さえて海に飛び込むように」と教えられていた。
■差別を受けていた沖縄と朝鮮の人たち
疎開先の川原では朝鮮人の労働者が働いていたようだ。近所に朝鮮の人たちがいて、友達のように仲が良かった。
沖縄の人と朝鮮の人は標準語がわからないので、本土の人たちから相当ばかにされていた。私も「誰々さんはまだですよ」と言っていたつもりだが、本土の人たちには「まだ」が「まら」と聞こえたらしく、「玉城まら」というあだ名を付けられた(本土では、「まら」は男性器を表す言葉だった)。
沖縄出身の兵隊たちも言葉で苦労したようである。私の従兄は「玉城一等兵○○…」と呼ばれたが、言葉がわからず立ち尽くしていたため、「貴様は!」と相当殴られたようだ。
■奉仕(ほうし)作業ばかりの学校生活
当時は非常時でみんな配給制(はいきゅうせい)だったため、贅沢な暮らしはできなかった。私の住んでいた家のすぐ上に日本軍の部隊がいたが、ある上等兵が家に遊びに来たのでヒラヤーチーをあげると「おいしい、おいしい」と食べていた。ウムニー(炊いた芋をつぶしたもの)も食べていた。
疎開先では木城国民学校の高等科1年生として学んだ。同級生には真境名から疎開してきた東新屋のノブコもいた。
当時は勉強どころではなかった。午前中は出征(しゅっせい)兵士の見送りで、午後には戦地から送られた遺骨のお迎えをさせられていた。見送りと遺骨のお迎えの合間には戦地に行った兵士の家庭での奉仕作業があり、芋掘りや畑作業をさせられた。
遺骨を迎える時には無言で「先輩、悔しかっただろう。よし!この仇(かたき)は我々が取ってやる!」と誓い、ウートートーと祈っていた。
■志願兵で召集前に終戦
終戦前、私は機関兵 ※2に志願して申し込んでいた。しかし来年は召集(しょうしゅう)という時に終戦になった。悔しくて悔しくてしょうがなかった。
当時は「お国のため」という天皇のための教育だった。疎開先の学校では、「神勅(しんちょく)(天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅)」を覚えるまで黒板の前に立っておくように言われていた。当時覚えたものが今でも忘れられない。大里第二国民学校でも、「断固と撃ち殺せ邪悪の国 アメリカ イギリス われらの敵ぞ」という歌を教えられていた。また、「勝ってくるぞと勇ましく ちかって故郷(くに)を出たからは 手柄たてずに死なりょうか 進軍ラッパ聴くたびに 瞼(まぶた)に浮かぶ母の顔」※3という出征兵士の歌 ※4を習ったこともよく覚えている。
戦後、観光で鹿児島県の知覧(ちらん)に行った。特攻隊で亡くなった兵士の慰霊の塔があるが、そこにお参りに行った時にもそのような気持ちでお祈りした。「撃ちてし止まん」だったから、その時まで悔しい気持ちは残っていた。
■「勉強して何になるか」
沖縄には高校に入学する前の17歳の時に帰ってきたが、その後の生活も大変だった。知念高校に進学しようとしたら、養い親であるおじ(永昌)に「今から高校に行く?この艦砲の穴はどうするか?」と言われた。見渡す限り、地面は砲弾の落ちた穴だらけだった。今のように機械がある時代ではなかったから、穴をスコップで埋める作業をした。「畑をしないと食べるものも食べられないよ」「高校に行って勉強して何になるか」と言われていたので、高校には行けなかった。
17歳ぐらいの頃には、シズエと一緒に糸満や首里まで歩いて、シンタ(藁(わら)を竹の皮で編んだ鍋のふた)やミージョーキ(底の浅いざる)を売りに行った。真境名の人たちはシンタを作るのが上手だった。糸満には真境名から稲福(いなふく)、東風平(現 八重瀬町)の志多伯(したはく)街道を通って行った。
首里に行くときはティシラジマチグヮー(現 那覇市首里汀良(てら)町)で芋を売った。首里には酒屋が多かったので、帰りにはカシジェー(酒粕(さけかす))をいっぱい担いで「よいしょ、よいしょ」と運んで帰った。カシジェーは豚の餌に少しずつ混ぜて食べさせていた。これを食べて育った豚は、芋やカンダバーだけを食べさせていた豚とは肉質が全然違っていた。当時のバクヨー(牛や馬を売買する人)は豚の脇腹を触って肉質を判定していた。
■家族の沖縄戦体験
長兄の善雄は農兵隊として、戦地に行っている軍人、軍属家族の農業手伝いなどの奉仕をする作業をしていたようで、新聞にも取り上げられていた。
農兵隊は名護の宿舎で解散になり、兄は本家の家族を心配して、名護から真境名まで夜通し歩いて帰ったそうだ。その後、おじの永昌とおばと共に具志頭村(現 八重瀬町)まで避難し、兄とおばは安里(現 八重瀬町)で亡くなったようだ。戦時中だったので火葬や埋葬(まいそう)をすることはできず、2人を空き家に置き、おじは捕虜になってやんばるの収容所に入れられたという。戦後に遺骨は拾い、ユタに頼んでタマシーウンチケー(霊魂を招き入れる供養)をした。あの状況は思い出したくもない。
従兄の永徳は海軍で角帽をかぶった海軍兵曹長だったが、この戦(イクサ)で亡くなった。
大阪でアメリカ資本の会社(ゼネラル・モータース)に勤めていた父は、私が宮崎に疎開していた時に真境名に帰ってきていたようである。ところがアメリカ企業に勤めていた関係でスパイと疑われ、憲兵(けんぺい)などが身辺の見張りをしていた。父はいたたまれなくなり、次女の浩子を連れて台湾に疎開しようとしたが、乗った船が撃沈されて2人とも亡くなった。戦後、那覇の三重城(ミーグスク)で父と浩子のタマシーウンチケーをした。
(知念昌徳による聞き取り 2016)
■脚注
※1 疎開船対馬丸は1944年8月21日に那覇港を出港した。
※2 海軍軍人のうち、軍艦の機関の運転やボイラー、および電気機械の取扱いなどに当たる兵のこと。
※3 正式な歌詞は「瞼に浮かぶ旗の波」だが、ここでは話者の記憶に基づいて記載した。
※4 曲名は『露営の歌』である。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015708 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 124-127 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-真境名 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |