■沖縄戦前の生活
戦争が来る前には現在の上稲福(うえいなふく)(旧稲福集落)に住んでいた。最初は武(たけ)部隊が来て、カモン少尉(しょうい)という人が隊長だった。その後に球(たま)部隊が来た。
学校には全部兵隊が入り込んでいたので、生徒たちは別の場所で勉強することになった。稲嶺や大城に行く人もいたが、稲福の子どもたちは平良や真境名(まじきな)の人たちと一緒に当間に行った。当間には、寺のようなムートゥヤー(本家を祭った建物)みたいなものがあった。
昭和19年(1944)10月10日の十・十空襲の時には稲福のハンタ(集落の西側)から那覇が全部見えたので、集落の人たちはそこに集まって那覇の家が焼けるのを見ていた。まだ子どもだった私は「あそこが燃えている、こちらも燃えている」と面白おかしく見ていただけだった。
それ以前は子どもだから壕掘りなどもなく、学校の行き帰りに溝(みぞ)に伏せる訓練をしたことはあったが、防災訓練もあまりしなかった。
■前川ガンガラーで流されていく人や道具を目撃
沖縄戦が始まり、佐敷村(現南城市)馬天(ばてん)港のアメリカ軍の軍艦から照明弾が上げられて艦砲射撃がなされ、飛行機からも焼夷弾(しょういだん)などが落とされるなど、攻撃が激しくなった時から避難を始めた。稲福にも弾が相当落とされ、集落の人や多くの家畜が亡くなった。私たち家族は福地(屋号)の屋敷の後ろにあった壕にいたが、日本兵に「アメリカ軍はそこまで来ている。お前たちを守れないから早くここから出て行きなさい」と追い出された。確か球部隊の兵隊だった。
当時、防衛隊にいたが家族の安否を気遣って帰って来ていた父と、母と弟たち、そして集落の人たちと一緒に稲福を出た。雨が続いていた時期だったが、大城城跡の後ろから大城に下りて、玉城村(現 南城市)の船越(ふなこし)を通って前川(まえかわ)に行った。途中、大城城跡にいた日本兵が「道には地雷が埋められているから気をつけなさい」と声をかけていた。
左手に前川、右手に新城(あらぐすく)(現 八重瀬町)が見える間を、前川ガンガラーに向かって避難した。降り続く雨で壕の上まで水かさが増し、川の両端に避難していたけが人や、鍋などの生活道具まで流されていくのも見た。その光景がいまだに残っていて、私は現在までそこに行ったことはない。
また、その頃はチーグスマヤー(赤痢(せきり))が流行っていたが私たちは罹らなかった。
■伊敷で家族や集落の人たちが犠牲に
そこには2、3日ほどいたと思うが、その夜にアメリカ軍の斥候(せっこう)兵たちが来ていた。彼らが来るとその後に攻撃が始まるし、その時には水位も下がっていたので川を渡って新城に出て、糸満の照屋の橋の下で1日を過ごした。そこも大変だと言われ、次は国吉(くによし)、真栄平(まえひら)(現 糸満市)に行った。そこの郡道(ぐんどう)には黒光りしたたくさんの死体が並べられていた。避難民はそのそばの水たまりの水も飲んでいた。私たちはそれらの死体をまたいで伊敷(いしき)(現 糸満市)に行った。
伊敷には捕虜になるまでいたが、そこで家族3人が亡くなった。私たちは攻撃が激しくなる度に集落内を3回転々と場所を変えて避難した。父が初めに亡くなり、集落の人たちが協力して皆で埋葬(まいそう)してくれた。父の埋葬が終わり、集落の人たちがいるところに戻ると母と弟が亡くなっていた。母は産後の状態も悪く、鳥目にもなっていた。肩をけがしていてお乳も出なかったので、1歳になる乳飲み子の弟も栄養不良で母と一緒に亡くなった。2人を弟のイサオと一緒に門まで引きずり出して、着物を被せて葬った。遺骨は戦後、イサオと一緒に全部拾ったが、着物の綾(あや)で分かった。父はスリチラー(袖のない、芭蕉布(ばしょうふ)で作った粗末な夏の着物)を被せてあったのが残っていたので分かった。
伊敷では同じ稲福の人も多く亡くなった。周囲が土手みたいで土間が打たれたような8畳間くらいのくぼみに避難していた時、隣に赤帽を被った警防団がいて、その人たちを目がけて弾がどんどん撃ち込まれた。迫撃砲(はくげきほう)、焼夷弾、黄燐弾(おうりんだん)という青い光が出る弾が燃えて家に撃ち込まれた時、家から燃えた人も出てきたが、触ると自分も燃えてしまうので誰も触れなかった。18か19歳くらいの女性は足を切られて「水を飲ませてくれ」と哀願していたが、水を飲ませると死んでしまうことをみんな分かっていたので飲ませなかった。彼女はのちにモンペの紐を外し、木に首を吊って死んでいた。
稲福の人たちの中には、「どうせ死ぬなら自分の集落で死んだ方が良い」と、けが人を置いて稲福に帰る人たちもいた。
残った人たちの中には、私たち家族を頼ってきていた馬天の夫婦(妻が稲福の人だった)もいた。民家のどの屋敷にもあるようなこんもりとした草木が茂ったところに一緒に隠れていたが、その夫婦もそこで亡くなった。彼らも門から引きずり出して葬った。
黄燐弾が落ちた時に稲福の人が大勢亡くなった。私たちより少し高いところに座っていた男性は爆風でガジュマルの上から越えるように吹き飛ばされ、他の男性も爆風で即死した。ある親子と、低いところに座っていた私たちは爆風で土砂に埋められたが、そこから這い出して助かった。爆弾や焼夷弾がボンボン落とされてみんな埋められてしまった。
■孤児院(こじいん)に収容される
私と弟2人(イサオ、イサム)は稲福の人たちと一緒にいて、伊敷で捕虜になった。私たちはスンジャカニグスク(現在の糸満市の潮平、兼城)の広場へ集められた。場所はわからなかったがそう言われていた。けが人は別のところへ連れて行かれた。
そこからやんばるに連れて行かれた。私と弟たちの3人は両親がいないので、宜野座の古知屋(こちや)(現 宜野座村松田)の孤児院に入れられた。孤児院の院長はギボさんという津嘉山(つかざん)(現 南風原町)の人で、奥さんは産婆さんだった。そこからその人たちが玉城の船越に来て、私たちは百名(ひゃくな)の孤児院に移った。百名孤児院は瓦屋(カワラヤー)で、湧泉(ゆうせん)があるところに広場があった。
私たちは、サイパンから帰ってきた父の弟であるおじ夫婦に引き取られた。私たちは話もしたくないほど大変な思いをしてきた。
(知念昌徳による聞き取り 2008)
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015707 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 121-123 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-稲福 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |