■武部隊の駐屯
昭和19年(1944)頃の私の家族は、父の福善(45歳)、母のウシ(43歳)、姉の春子(23歳)、私(17歳)、弟の善吉(15歳)、善考(12歳)、善助(10歳)、善栄(8歳)、善勇(4歳)、妹の静子(1歳)の10人だった。
昭和17年(1942)からだんだん物が無くなって非常時になった。弟の善勇は昭和16年に生まれたが、1歳の頃には何もなく、米や石油などすべて配給になった。
私は青年学校に入っていた。大里第一国民学校(現在の大里北小学校の前身)が大里村全体の青年学校になっていた。軍隊同様に扱われ、女子も竹やり訓練などいろいろあって大変だった。
昭和19年の8月頃から兵隊が来た。姉と芋掘りに畑に行く途中、武(たけ)部隊の兵隊たちがたくさんやってくるのを見た。「沖縄に戦争が来るのだな」と寂しくなった。
集落にも武部隊の兵隊たちが入った。殿(トゥン)にテントを張り、瓦葺(かわらぶき)の家々に兵隊の隊長等(大尉(たいい)、中尉(ちゅうい)、准尉(じゅんい))が入った。事務所にも兵隊たちが14、5人いて、敷地内に軍の炊事場もあった。
■疎開を断念
8月には疎開(そかい)が始まった。わが家でも疎開の準備をしていたが、母が「私は行ったことのない場所にこんなにたくさんの子ども達を1人で連れて行けない。春子か艶子のどちらか1人を連れて行かないと、赤子もいるし無理だ」と言い出した。そこで父が区長さんに相談すると、「この子たち(春子と艶子)は妊婦ではないし、国のためのことをさせないといけないので疎開できない」とのことだった。父は帰って来て「できないそうだよ」と話し、「それなら仕方ない、生きるか死ぬかは家族皆一緒だ」と、わが家は沖縄に留まることになった。
村に来た兵隊たちは「なんでおばさん、こんなかわいい息子さん達を疎開させなかったか。確実に沖縄は第一線になるよ。もったいないですね」と言っていた。生きるか死ぬかどうなるかわからないが、仕方がないと思った。
■陣地構築への動員
父は動員で西原飛行場の建設に行っていた。集落から7、8人が一緒に動員され、半月ほど住み込みをして働いていた。だがしばらくして、兵隊たちが「敵はフィリピン、南洋から沖縄に向かっているから、どうせ飛行場を造っても意味がない」と言って夜に解散させたという ※1。父たちは夜中に帰宅してきた。父は「こんなに大勢の子ども達をどうしようかな」と寂しそうに話していた。
昭和19年には、青年学校からの動員などで私も壕掘りに行くようになった。小波津(こはつ)(現 西原町)、大見武(おおみたけ)(現 与那原町)、運玉森(ウンタマムイ)(現在の西原町と与那原町の境にある)などに行った。
小波津の壕掘りの現場はお墓で、そこはニービ(砂岩)で出来ていた。兵隊たちは墓から厨子甕(ジーシガーミ)(骨壺)を全部出して、習字紙で魔よけの綱を作り墓の前に張って拝んだ。「この人たちはわかるんだねぇ」と言うと、兵隊たちは「私たちはよくわかるよー」と答えていた。
それから大見武で、集落の入口あたりでの壕掘りに行った。2、3日して兵隊が「あんた達は豆腐を作れるか」と聞き、友達が「作れる」と言ったので、土運びでなく豆腐を作ることになった。近くの民家で作っていた。
運玉森では、大里第二国民学校(現在の大里南小学校の前身)にあった大きな鏡を外して、光を反射させて壕の中を掘り進めていた。私たちはトロッコで何度も土運びをした。
■命がけの弾運びをさせられた10月10日
10月10日には那覇が空襲に遭い、一週間ぐらい昼夜真っ赤に燃えているのが稲福のハンタ(那覇の見える高台)から見えた。
10月10日当日、アメリカ軍の飛行機がひっきりなしに飛び交う下、武部隊は稲福の女子青年12、3人に弾薬を頭に載せて運ぶよう命令した。飛行機が上空に来たら木の下に隠れ、稲福の西の墓の前から大城の新地門中(もんちゅう)のお墓まで運ばせた。特攻隊と同様に弾薬を持っているので、誰か1人に弾が当たると私たちは全滅していたと思う。私たちは命がけで弾薬を運んだ。幸い、アメリカの飛行機は那覇ばかりを攻撃目標にして田舎は全然相手にしていなかった。なぜあんな危険な空襲時に私たちに弾薬を運ばせたのか、いまだに理解できない。
十・十空襲後は、女子青年たちは「空襲警報」「警報解除」と叫んで各家庭を回った。「戸の穴から明かりが漏れていますよ。帳面紙(ちょうめんし)でふさぐように」とも注意した(その頃は新聞もなかった)。
男子青年は伝令(でんれい)といって、馬に乗り襷(たすき)をかけ、南風原区にある大里村の役場から長堂(ながどう)を通り、次の人に引き継いだ。一晩を4人くらいで交代してやっていた。真境名(まじきな)の卒業したての青年は、長堂からは墓が多くて通れないので稲福の道を通っていた。
■続く陣地構築と列車爆発事故
稲福の新田腹の墓のところから大城城跡の殿の上まで、武部隊の兵隊たちによってトンネルが掘られ貫通していた(マツザワ陣地と呼ばれていた)。10月10日後からは、軍の命令で「時間がないから女子青年は応援してちょうだい」と言われ、毎日夜の8時から夜中12時まで働いた。私たちは、土をザルに入れて手渡しで運び出したり、溜まった水をテント生地で作られたバケツで手渡しで運び出したりして手伝った。武部隊はこの陣地を完成させてから台湾に転出した。
次は南風原村(現 南風原町)の陸軍病院の壕で、私たち女子青年は裸足にモンペ姿で、青年たちが掘った土を運び出す作業をした。私は稲福から毎日、陸軍病院のある南風原村喜屋武まで歩いて通っていたので遅刻していた。出席を取っていたのは日本兵ではなく朝鮮人軍属(ぐんぞく)で、その人に「あんた達は毎日遅れるさ、何でね」と聞かれていた。私は家族に言われて、朝は5回ほど桶(おけ)を担いで水汲(く)みしてから壕掘りに出かけていた。この水は帰ってからの水浴びや洗濯をするのに使っていた。作業を終えて家に帰る頃には夕飯は終わっていた。
昭和19年の12月、3時休憩の時、地震のように地面が揺れてバッバーンと音がした。青年たちが黄金森(クガニムイ)の上に登り「アイヤー、(軽便(ケービン)鉄道の)糸満線が燃えているよー」「銭又(ぜにまた)のところから火事になっているよ」と叫んでいた。糸満線には女学生や中学生、兵隊たちがたくさん乗っていて弾薬も積まれていた。列車は石炭を燃やして走るので、それで弾薬に引火して爆発し、相当たくさんの学生や兵隊が亡くなったという。
陸軍病院の次は南風原村喜屋武の壕掘りだった(現在の翔南小学校の内側だった)。本部(もとぶ)集落に15日間の住み込みをしての作業だった。12人ぐらいでイーヌザー(床の間のある部屋)に寝た。枕元に服の入った風呂敷包みを置き、朝5時にラッパが鳴ると井戸で洗面などをしてから、炊事場になっていた喜屋武の事務所へ行った。今でも、事務所の近くを通ると食事をもらえなかったことを思い出す。朝は板で作られた弁当箱に、芋を半分混ぜた玄米ご飯だけで汁もなかった。私たちは家から持参していた油みそを弁当箱に入れて持っていたので一緒に食べた。朝食後に壕掘りの現場に行った。
お昼時には、各壕からこの炊事場に2人でお昼ご飯を取りに行った。持ち手がついた小さな箱に、掘ってしばらく置いて枯らした芋が蒸しておかれていた。それと、味噌と水を沸騰させただけで野菜の入っていない汁が水桶に入れてあった。1人は芋の入った小箱を持ち、もう1人は汁の入った水桶を持って壕に行った。湧稲国(わきなぐに)の青年たちは、汁を見て「これが食べられるか。私たちを馬鹿にしているなぁ」と言い、すぐススキの根元にこぼした。芋は奪い合って食べた。
壕では兵隊が来て、縦、横を測ってから「これだけ掘らないと残業させるからね」と言って帰った。青年たちは「満足な食事もないのに」と怒っていたが、兵隊たちには文句を言えなかった。兵隊たちは私たちを馬鹿にして扱っていた。
夕飯も事務所で、芋を混ぜた玄米ご飯だけだった。そして宿舎に眠りに行く、それだけだった。毎日その繰り返しで、15日勤めて家に帰った。
その後も青年学校から通知が来て、今度は照屋(現 南風原町)の前の方の壕掘りだった。青年たちはツルハシで壕を掘り、掘り出した土をモッコに入れた。私たちはそれを2人で担ぎ、長い距離を運び出した。朝の8時から夕方5時まで運び、3時休憩はあったがそれ以外の休憩はなかった。
家に帰る時、当間、仲程でランプが点いていた。真境名のクラグァーには衛兵が拳銃を持って立っていて、「おい、あんた達はどこから来たか」と言うので「私たちは字稲福の女子青年です。南風原に壕掘りの動員に行った帰りです。」と答えると「よし、帰れ」と言った。
大前墓地は非常にこわいところなので、3人で手をつないで「用意ドン」と駆け出して切り通しまで走った。通り過ごしてから大声で歌を歌って稲福に登った。家族は夕飯を済ませているので、1人で夕飯を食べて水を浴び、洗濯をした。タオルは1枚しかないので、乾かないままのタオルを翌日かぶって裸足で壕掘りに行った。今のように石鹸もクリームもなかった。道もでこぼこで、稲福に上がる道には草がボウボウ生えていた。
■石部隊・球部隊の駐屯と救護班教育
武部隊は8月に来て、12月に大隊本部のある大里第一国民学校に行った。
12月の末には稲福に石部隊が来た。石部隊の兵隊たちは華北(中国北部)から沖縄に来ていた。彼らは稲福に来る前には安谷屋(あだにや)(現 北中城村)にいた。安谷屋では、女子青年が夜に壕のところへ遊びに来ていたらしい。兵隊たちが「この集落(稲福)は変だねぇ。1人も来ないよ」と言っていたと、友人から聞いた。私たちは兵隊が来る前から、夜遊びをしないよう青年学校から厳重に注意されていたので、夜の集会の後はまっすぐ家に帰った。
この石部隊の兵隊たちも夜にこっそり移動していった。スパイがいるかもしれないので移動先は秘密にして出発していった。
次は球(たま)部隊の鈴木隊が稲福に14、5日いた後、同じ球部隊の古川隊が来た。
古川隊から「敵が沖縄に来ると確実に沖縄は第一線になる。だから救護班が必要である。田舎には看護婦がいないから、稲福の女子4人(チヨ、ツル子、好子、私)は訓練を受けて救護を手伝うように」と命令が来た。私たちは毎日軍のトラックに乗って、玉城村(現南城市)親慶原(おやけばる)の衛生兵のところへ勉強に行った。そこで包帯や三角巾の巻き方、けが人の世話の仕方などの講習を受けた。その後、稲福のサーターヤー(製糖場)の隣の病院壕を手伝うことになった。
■夜中の食料運搬と芋掘り
昭和20年3月23日は妹の静子の誕生日で、私は春子姉さんと朝早くに豆腐を作っていた。すると、首里の方でバンバンと弾の落ちる音がした。首里の方ではアメリカ軍の飛行機に向けて高射砲(こうしゃほう)でバンバン撃っていた。「空襲警報、壕に行きなさいよ」と兵隊たちが叫んでいた。豆腐は捨てられないので担いで行き、壕のそばの小さな小屋で豆腐を完成させた。
4月に入ってから、古川隊から「夕飯を済ませて馬場(ばば)に集まるように」と指令があった。元気な人は防衛隊や兵隊に行っていたので、老人(この当時は44、5歳は老人だった)と女子青年、出征兵士の妻たちが集まり、区長さんが出欠を取った。兵隊たち3人の指揮のもと、私たちは佐敷村(現 南城市)の小谷(おこく)に下りて新里に渡り、桃原屋取(ヤードゥイ)※2を通って佐敷の学校近くの日本軍の壕に行った。夜の馬天(ばてん)の海は、アメリカ軍の軍艦がいっぱいあって星のようにキラキラしていた。
壕で、お父さんたちは米1俵を綱に抜き2人で担いだ。女子はカマス(わらむしろで作った袋で、穀物や塩、石炭などの貯蔵や運搬の際に用いる)に入った塩を2人で担いだ。道の悪い新里ビラに差し掛かった時、ポンと照明弾が上がり、私たちの頭上で真昼のようになった。「ウリヒャァー」と言って木の下に隠れた。民間人だけなので弾は来なかった。兵隊たちはそれを知っていて、民間人を利用して食料を運ばせた。現在の老人ホームのところにある按司(あじ)の墓をおそらく兵隊が開け、「この墓は見た目は大きいが塩1トンも入らないよ。変なお墓だよ。だから松の下に積んでおきなさい」と言って、運んできた荷物にテントを被せた。
運搬は夜中12時頃までかかり、兵隊が「ご苦労さん」と言ってガーゼに包まれたカンパンを1袋ずつ私たちに与えた。同じ集落のおじさんが、「兵隊さん、これよりはおにぎり1個ずつで良いんですよ」と言うと、兵隊は「何を言っているのか馬鹿野郎。こんなたくさんの人数にご飯を炊ききれるか。これで我慢しろ」と言い返していた。
この作業は翌日も続けられたが、みんなが命がけで運んだこれらの食料は、のちに全部カンポウ ※3で吹き飛ばされた。食料運搬のあと、家に帰りつくのは夜中1時頃だった。「今から壕に行って寝たら夜が明けるから、芋掘りに行くように」と言われた。父も母も朝で1日分の汁と芋を煮ていた。
春子姉さんは反抗しないで何でも「はい、はい」と聞くので、私もずっと姉についていった。その頃は牛も山羊もいたので、春子姉さんは棒と鋤(すき)を持ち、私はザルと鎌(かま)を持って現在の食肉センター近くの自分の畑に夜中から芋を掘りに行った。夜中2時頃だったが、艦砲射撃は鳴りやまなかった。馬天からヒューと音がしたら弾は当間や仲程に落ちた。近くに落ちる時はスルスルー、ババンと音がして落ち、破片が飛び散った。その頃、避難民や兵隊は大城を通って、喜屋武から玉城に逃げて行ったので、彼らを標的に弾を撃っていた。破片は石の粉をまき散らしているようで、私たちには当たらなかった。芋は良く育っていた。私は芋をザルに入れ、それを姉が頭に載せてくれた。姉はカズラ(つる)を天秤棒(てんびんぼう)で担いで急いだ。
そんな生活が毎日繰り返されたが、一度とても大変なことがあった。芋掘りを終えて帰る途中、近くにカンポウが落ちた。姉は小川に伏せたが、私はザルを頭に載せていたので急いで逃げた。頭上に破片が飛んできたが夢中で駆けて行った。家に着いて見ると、ザルは黒く半分に割れていて翌日から使えなかった。このザルがなければ私はやられていたと思う。
カンポウで集落の多くの人が亡くなり、けがをした。稲福にどんどん弾が落とされて、「私たちも今日はやられるなぁ」と思った。昼も夜も、地震のように壕が揺れていた。
新前仲大屋(屋号)のおじさんは自分の壕にいて、馬天から弾がひっきりなしに稲福に落とされるのを見て心配していた。夕方の5、6時頃に弾が止んだので、うちの家族の安否を確認しに私たちの壕まで走って来られた。「とう、ここにはいられないよ。たくさん死んでいるよ。私たちの壕に行こう」と誘ってくれ、私たちは夜からおじさんの壕に移った。そこは新里と玉城村親慶原、稲福の境のところにある自然壕だった。井戸もあり、豆腐も作れるぐらいのきれいな水があった。
■病院壕での勤務
私は稲福の自分たちの壕にいた時から病院壕の手伝いをしていた。血の付いた包帯を4人で洗ったり片づけたり、患者の世話をしたりしていた。おじさんの壕に移った後も手伝いは続けていて、毎日5時出勤で、飛行機も飛び交う中を1キロ以上離れた壕から通っていた。日中は負傷兵の血の付いた包帯を替えたり尿を片づけたりして、夕方は炊事場へ病人の食事を取りに行った。食事は嘉手納の姉さんたちが作っていた。彼女たちは軍服で三つ編みをしていた。弾が貫通して寝たきりの重傷患者は、「おい姉さん、水ちょうだい。水ちょうだい。水がほしい」と言っていたが、水を与えてはいけないので聞こえないふりをした。別の1人は「ミカンがほしいから1個でもいいから探してちょうだい」と言い、「兵隊さん、今はミカンの時季ではないから1個もないですよ」と言うと「ミカンがほしいよ」と泣き出した。内側にいた兵隊は「班長殿」と大きな声で叫んだ。班長がやってきて「何か」と言うと「ただ今、故郷から母親が来ています。ここを片づけて下さい」と熱におかされて言っていた。「忙しいよ、ほっとけほっとけ」と班長は帰って行った。負傷兵は泣いていた。重傷患者には私たちが食事をあげた。寝たきりの患者は尿はするが便はしなかった。尿は空き缶にして、「捨ててちょうだい、缶は洗って持ってきなさいよ」と言っていたのでそうした。いつもこんなことをしていた。
2、3日食べ物を口にしない兵隊がいたので、友達と相談して葛(くず)に黒糖を入れて溶き、温めて食べさせた。「これは何という食べ物ですか。たいへん美味しいねぇ」と言って食べていた。そこに班長が通りがかり、「おい、あんた達はこれに何をあげたのか。あんた達はこれがどうかしたら責任を持つか」と言った。「この兵隊さんは2、3日何も食べないからあげています」と言うと「ほっとけ、ほっとけ」と言って帰った。負傷兵は「美味しい、美味しい」と言って泣いていた。私たちはびっくりして葛をあげるのをやめた。その1、2時間後にこの方は亡くなったので、便所の近くに葬った。この壕にいたほかの3人の重傷患者は、ヘンサ森の近くから稲福の防衛隊が担いで連れて来ていた。
アメリカ軍が近づいてきた時、元気な人たちは治療されて出て行き、壕には重傷患者だけになった。私たちはその頃から夜勤になった。12時を過ぎると軍医も衛生兵たちも就寝時間になり、私たち救護班の4人は朝5時まで衛兵の代わりに入口に立たされた。2人ずつで2ヵ所の入口に立ったが、ちょっとした物音にも敏感になり怖い思いをした。
一週間ぐらいしてから、軍医が「アメリカ軍が近くまで来ているので病院を解散しよう」と決断した。衛生兵が「包帯とガーゼ、三角巾などを準備してあなた達にあげるから、明日の朝もらいに来なさい」と私たちに告げた。その後、嘉手納の姉さんたちが炊事場から降りてきて、「解散命令が下ったから、あなた達は早くここを出なさいよ。私たちのようになると大変だよ。私たちは自分の集落の近くにアメリカ軍が上陸したからこの兵隊たちに付いてきたが非常に後悔しているよ。家に戻ることもできない、親もどこにいるかわからない。あなた達は、親たちがどこにも移動しないうちに早く帰りなさい」と私たちを追い返した。私は包帯などはもらわないでいいと考え、夜明け前に病院壕から家族のいる壕に戻った。
戦後、事務所のそばの西大屋(屋号)と殿の2軒の瓦葺の家が焼け残っていた。遺骨拾いをしていた稲福の人が西大屋の天井に登り、「アキサミヨーたくさんの人が死んでるよ」と叫んだ。おそらく軍医と衛生兵、そして嘉手納の姉さん達だったのだと思う。白骨化していたが、三つ編みをした髪の毛と軍服は残っていた。姉さんたちは生前かわいい人たちだった。毛布を敷いて寝て、毛布を被って薬を飲んで死んだと思う。
■南部へ避難
おじさんの壕に越してからしばらくして、馬の肉を買って夜は壕で炊いて食べた。その翌朝に雨が降った。春子姉さんとヨシコ姉さんが2人でみんなに食べさせようと肉汁を温めていると、上から水が流れてきた。おじさんが鋤でほじくっていたら、泉だったのか急にどっと水が流れてきて鍋も水に浮いた。急いで全員外に出て、包丁もまな板も取れなかった。しばらくして浮いている鍋を引き出してきて、みんなに肉汁を食べさせた。私たちはそこにいれないので、この壕を出ることにした。
私たちは玉城村富里(ふさと)の上の山の小さな岩穴に一週間避難した。その後、前川の近くのハサマ屋取で弟の善栄といとこが小銃の弾に当たり亡くなった。彼らを簡単に葬ってから具志頭村(現 八重瀬町)新城に行った。新城の馬場で、真境名の知人の奥さんが、昨日お産をしたと言って赤ちゃんを抱いて真境名の方々と10人くらいで立っていた。「皆さんはどこに行くの」と聞かれたので、「私たちは島尻に行こうと思うよ」と答えた。真境名の人たちは、「私たちはどうなってもいいから知念・玉城に行こうと思っている」と言っておられた。良い兵隊たちは「やんばるか知念・玉城に避難するように」と言っていた。稲福にいた兵隊たちは「必ず糸満までは行くように。決して捕虜にならず、いざとなったら自分で死ぬように」と言っていた。
私たちは玻名城(はなしろ)(現 八重瀬町)で1泊して真壁(まかべ)(現 糸満市)に行った。私たちがいた家は、母屋(おもや)も離(はな)れも、馬小屋も豚小屋も瓦葺で、後ろは道だった。この瓦葺の家の馬小屋にいたが井戸がなかった。隣は茅葺(かやぶき)の家で焼けていたが井戸があった。そこのおじいさんはトタンを2、3枚門の上に乗せて、仮小屋を造ってそこにいた。ケチなおじいさんは、避難民が井戸の水を使うのを監視するため壕には行かなかった。稲福の女性が醤油樽を借りて芋を洗っていると、彼女を後ろから蹴って「お前がうちの醤油樽を盗んだな」と奪い取り、芋をこぼしていた。本当にいやなおじいさんだった。
2、3日して、みんなが井戸で水を使っていた。飛行機が飛んでいない間に水を使う避難民や兵隊たちもたくさんいた。そこに例のおじいさんが来て、「水は惜しくないからどんどん使いなさい、だがこの綱が惜しいから」と、井戸の綱を外した。綱がなければ水を汲めない。皆あっけにとられ、「ヤナウスメーグァー(いやなおじいさんだ)」と文句を言いながら皆別れた。
ほかに井戸のある場所を知らないので、遠い学校のところの樋川(ヒージャー)にヨシコ姉さんと水桶を担いで行った。その途中、畑のような場所に石垣が積まれていて、その側に兵隊2人がしゃがんでいた。だが、帰る頃には弾に撃たれて死んでいた。私たちはびっくりして走って帰った。爆弾は12時頃に落ちる。私たちのいた近くの家に爆弾が落ちたので、「次はこのお家が危ない」と思い馬小屋から出た。(戦後、農連市場で真壁から来たという女性たちに会った。真壁のある一軒家では、終戦後に新しく家を建てる時に敷地を掃除した際、80人分の遺骨が出てきたと話していた。)
夜に真壁を出て歩いていたら飛行機が飛んできたので、急いで近くのサーターヤーに隠れた。雨も降っていた。近くの民家から「助けてくれ」と泣き叫ぶ声も聞こえた。夜が明けたら、稲福の方々がサーターヤーにたくさんおられた。
■伊敷で稲福の人が大勢亡くなる
私たちは伊敷(いしき)(現 糸満市)のある民家に行った。門の近くに薪(まき)小屋があり、母屋は奥にあった。稲福の人がたくさん通って行った。その家から出てきた兵隊が「あんた達は飛行機が飛ぶのが見えないのか、刺し殺されるよ」と怒鳴ってきた。私たちは「兵隊さん、ここに隠れさせてください」と薪小屋に隠れた。一緒にいた稲福の人たちは「壕を探して入るから」と、集落の中に入っていった。
この家の石造りの豚小屋のうしろに少し広間があり、2本の大きなガジュマルが生えていた。その広間におじさん家族と私たち家族はいた。そこには破片1個も落ちなかった。壕を探しに集落内に行った人たちは、探して入った警察の壕に爆弾が落ちて多くの家族が全滅した。
私たちはガジュマルの下で夕飯を済ませると、姉と2人で近くの家に泊まりに行った。夕飯の時に母が「ここで眠りなさいよ。後ろの道で猫が嫌な鳴き声をしていたから。あなた達はあの家に行くようだけど今日は行かないように」と言っていたが、私たちは無視した。その家には避難民がいっぱいいた。私は戸棚に入り、姉に「ここに入って、ここなら破片も当たらないよ」と言ったが、姉は「馬鹿じゃないか、よその戸棚に入って。出なさい」と言った。
その晩、その家の台所の後ろにカンポウが落ち、台所にいた人が全員亡くなった。「アキサミヨーヤー」と叫んでいた。たくさんの人がけがをして、姉も「私の耳が切られているよ」と泣いて家族のところに走っていった。私は「大変なことになってしまった」と姉を追っていき、母に叱られた。「言うことを聞かないからこうなるんだよ。アンダマース(油と塩を混ぜたもの)を付けておこう」と言って母が姉の耳に塗ると、翌朝耳は赤くなっているだけでけがはなかった。石粉が当たっただけで切れていると勘違いしていたが、でもそれだけ痛かったのだろう。そんなこともあり、この伊敷では大勢の稲福の人が亡くなった。私たちにお椀1杯のナーバレー(ザラザラした砂糖)を持ってきてくれた稲福の青年は帰る途中に弾に当たって亡くなってしまった。朝になって、うちの父が稲福の別の家のお母さんに「うちは夕方にここを出るから一緒に伊敷から出よう。昼通る人がやられるから夕方まで待った方が良いよ」と言ったが、そのお母さんは「うちはお父さんがやられているからここにはいられない」と言って朝に伊敷を出た。彼女の一家は、真壁の学校前で6人が亡くなった。
夜、伊敷を出てアガリイ真栄平の1番高い所の瓦葺の家に入った。元気な人はみんな民家の床下に隠れ、けが人はみんな仏壇の前の床の上に寝かされた。私の友達の菊江もけがをして寝かされていた。いつやられるかもわからないから、私は菊江に声をかけることもできなかった。「水を飲ませてくれ」という声があちこちから聞こえたが飲まさなかった。
アメリカ軍が近くに来たというので、準備中のジューシーの水をこぼして、私たちの家族はこの家の後ろの松林に逃げた。そこで弟たちは、水をこぼした生米を全部食べた。弟たちはいつも「お腹空いたよ、水が飲みたいよ」と言っていた。サトウキビも切ってきてあげた。
そこにはたくさんの兵隊もいた。軍服を脱いで避難民の着物を着ている者、荷物を担いでいる者、松の下でかたまって座っている者などがいた。「これたちはどうせ捕虜になるはずだよ」と言って私たちに石を投げる意地悪な兵隊もいた。
■稲福へ帰る途中で捕虜に
「どうせ死ぬなら稲福の壕で死にたい」と考え、仲前大屋(屋号)のおじいさんの道案内で崖から海に出ることになった。この崖は10メートルぐらいの絶壁だった。夜、木の根をつかんで慎重に下りた。崖を下りてから、小さな弟たちも裸足ではぐれないように必死についてきた。低木のしげっているところを1キロメートルぐらい歩いて海に出た。そこではたくさんの兵隊が死んでいて、どの死体も真っ黒くなり大きくふくらんでいた。満ち潮だったので、しばらく岩の上に登って待った。
潮が引き始めたので岩から下りて歩き始めた。善吉と善考はムシロを担ぎ、私はみんなの服をカマスいっぱい入れて頭に乗せ、父は鍋や食料などを担いでいた。母や姉は静子と善勇をおぶっていた。他の弟たちは深みで溺れそうになりながらも必死に海岸近くを歩いた。私も何度も滑りそうになりながら歩いた。どんどん歩いて行くと綺麗な水が岩から流れているところにきて、仲前大屋のおじいさんが「2、3日水を飲んでないだろう。きれいな水だから、腹いっぱい飲むように」とバケツに水を汲んでくれた。全員が腹いっぱい飲んでから歩き出した。
海岸から陸に、兵隊たちが新しく造った道があった。海岸近くの小さな壕には兵隊たちが隠れていて明かりも点いていた。そこから登って、雨も降っていた中で少し休んだ。仲前大屋のおじいさんが「とう、少し休んで」「とう、今は少し歩こう」と指揮を取った。歩いていたらソテツの茂みから日本軍が手榴弾を前の方に投げた。「アキサミヨー」と叫ぶ声もした。1番目に仲前大屋の家族、2番目におじさんの家族、3番目にうちの家族の順で歩いていたが、びっくりして戻ろうとすると、今度は私たちの後ろの方に手榴弾が投げられた。だが1人も当たらなかった。「向こうに行けないさぁ」と上った道を下り、雨の中、夜が明けるまでしばらくそこに座っていた。
「さあ、今後は歩けるよ」と歩いたら、アメリカ兵が手旗(てばた)信号をしていて、後ろでは小銃の音がした。前にも後ろにも進めなくなったので、左側に移動して行ったら小銃の音はしなくなった。遠回りして端の方を通ったら具志頭村安里(現 八重瀬町)に出た。安里の後方の畑にアメリカ軍が大きなテントを張っていて、戦車が島尻方面にいっぱい走って行くのが見えた。「私たちは絶対に下りないよ」と姉と私は頑張っていたが、「田んぼの畦(あぜ)からたくさんの避難民が歩いている。さあ、あの人たちのところに行こう」と言われ下りていくとおじさん達もおられた。「手を挙げたら通すそうだよ」ということで、前の人が手を挙げて通って行った。おぶられている子どもたちも皆手を挙げた。私たちも、荷物を頭に乗せて顔を背けて通った。
そこを通れば稲福の壕に帰れると思って喜んでいたら、具志頭国民学校の前でアメリカ軍の日系2世が道をふさぎ、近くの空き地に入るように指示した。その時、10台ほどのトラックに裸でフンドシだけの捕虜になった兵隊たちが乗せられていくのを見た。私たちはここで捕虜になった。稲福の人もたくさん来ていた。
■収容所での生活
そこから50人ずつトラックに乗せられて、玉城村當山の馬場に降ろされた。そこでは米やいわしの缶詰の配給(はいきゅう)があり、初めてご飯を炊いて食べた。善栄を葬った近くだったので、母と姉が手を合わせに行った。
そこから歩いて玉城村百名(ひゃくな)まで行った。百名ではトンボグァー(アメリカ軍の小型偵察機)が前日に落ちたあとを見た。脳みそも地面に付いていた。
百名からは自由になったので、佐敷村字佐敷の戦前の屋比久(やびく)病院に行った。そこではたくさんの人たちが生活していた。私の知り合いがそこで傷の治りかけの頭を洗い、病気になり亡くなった。
捕虜になった後、夜歩いたらアメリカ軍の監視に撃たれるので、夜は絶対外に出ないようにした。屋比久での芋掘り作業の時は、死んでいる日本兵の軍服から、アメリカ兵が軍隊の階級マークを取っているのを見た。佐敷では海からハマグリを拾ったり、田んぼの稲穂を取ったり豆を収穫したりして食料は豊富だった。父たちも稲福で逃げていた山羊を捕ってきたり、近くの日本軍の壕から缶に入っていたワカメや春雨を探してきたりしていた。
佐敷から新里に行き10日ほど過ごした後、馬天(ばてん)港からアメリカの船に乗せられてやんばるの港に着いた。そこからトラックで久志村の大川(現 名護市)に連れて行かれた。そこは食べ物も何もなかったが、薪だけはいっぱいあった。大川には半年ほどいたが、私はその間にマラリアにかかった。大川では小さな子どもや赤ちゃんまでもマラリアにかかっていた。また、大川では井戸がなく、大きな川から水を汲んで飲み水や洗濯に使っていた。
私たちが滞在していた1軒家におられたおばあさんは、毎日ザルにいっぱいの芋を炊いて山に行っていた。「その芋はどうなさるのですか」と聞くと、「今までここにいた兵隊があの山にいる。かわいそうだから彼らに食べさせるんだよ」と言っていた。ある時、近くにいた津波古の人たちが演芸会をするために三線に合わせて踊りの練習をしていると、そこに日本兵たちが来て「おい、あんた達は三線を弾いて、戦争に負けても喜んでいるのか。刺し殺してやろうな」と拳銃を持って暴れた。そこにアメリカ兵が来て、その翌日、兵隊たちがいた山は焼夷弾(しょういだん)で焼かれた。
昭和21年(1946)にやんばるから大見武(おおみたけ)(現 与那原町)に移って20日ほど過ごしたのち、大里村大城の収容所に移動した。大城では芋掘り作業もあった。白い帽子をかぶったCPが端々(はしばし)に立っていた。玉城村の上江洲口(イージグチ)(現 琉球ゴルフクラブ)のアメリカ軍のごみ捨て場から何かを担いできた人や、集落から瓶や臼(うす)道具などを担いできた人たちはCPに取り上げられていた。
■戦争を振り返って
戦後、春子姉さんが最期の時、「戦世(イクサユー)の時、私たち2人は食肉センターの前の畑で弾の飛び交う中を芋掘りしたよね。1人でも弾に当たっていたらどうしていたかなぁ(そこはサトウキビとサツマイモ畑だけで人家や人通りもなく稲福から遠く離れていた)。どちらか1人がけがしたら、あんなに遠い稲福の家までどうしたのかな」と泣きながら話し、「私たちは運が強いね」と言った。「そうだったねぇ姉さん」と、手を取り合って泣いた。
私は美味しいものや変わったものを食べたりすると泣くことがある。一緒に壕掘りをした稲福の友達も、湧稲国(わきなぐに)の青年たちもみんな芋ばかりを食べて、若くして亡くなった。
戦争中には島尻で、稲福の若者6人が「自決」した。彼らはアメリカ兵の2世が「出てこい、出てこい」と呼びかけたので親たちに早く壕を出るようにせかして出させたあと、若者6人で車座になり持っていた手榴弾で死んだという。親たちはあとから彼らも出てくると思っていたらしい。当時は「若者が捕虜になると辱(はずかし)めにあう」というデマが強かった。
今あるいろいろな食べ物を一緒に味わうことができないのが非常に残念である。若くして亡くなったみんなにも美味しいものを食べさせたかった。稲福の慰霊祭には必ず手を合わせに行くが、慰霊之塔には友人たちの名前がいっぱい刻銘されていて、名前を見るだけで泣けて顔を上げられない。
私はゾウの親子が、夜に食べ物を求めて行列しながら歩いている様子をテレビで見ると、戦争中に私たち家族が島尻の夜道ややぶの中を、弟たちをかばいながら避難したことを思い出す。
日本は沖縄に戦争が来る前に降参すれば、こんなに多くの犠牲を出さずに済んだのにとつくづく思う。
(仲原節子・知念昌徳による聞き取り 2008 事務局による聞き取り 2015)
■脚注
※1 実際、西原飛行場の建設は地ならしをしただけで中止になっていた。大城将保は中止の理由を、地盤が軟弱で工事の先行きが困難視されたためだとしている(沖縄県文化振興会公文書館管理部史料編集室編『沖縄戦研究Ⅱ』沖縄県教育委員会 1999 118頁)。
※2 新里にあった集落で、戦後に土砂崩れのため消失した。
※3 沖縄戦体験者の語りの中で、アメリカ軍による空襲や艦砲射撃が「カンポウ」と表現されることがある。本書では、話者が「カンポウ」と話しているものの、それが艦砲射撃か空襲かを事務局がはっきり判断できなかった場合に「カンポウ」と表記している。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015706 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 106-120 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-稲福 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |