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玉城福梁(大正15年生まれ 大里・稲福)【キーワード】陣地構築/南部避難/収容所/戦果

■陣地構築への動員
那覇の十・十空襲(1944年10月10日)後からは壕掘りだった。私は初め、集落の先輩の男性たちと一緒に一週間泊まり込みで小禄飛行場の拡張工事に行った。当時私は18歳だったが、50歳代くらいのお年寄りも動員されていた。
それからしばらくして、今度は読谷飛行場へ動員された。飛行場が出来上がってからは壕掘りで、稲福の人達はヘンサ森(ムイ)に行かされた。私たちは馬車を持っていたので壕掘りはせず、壕の枠に使うために稲福の上原(現在「東雲の丘」がある付近)から切り出した松の木を馬車で運ぶ仕事をした。壕を掘るにしたがって枠を組んでいた。
大城城跡の下の壕も稲福の人達が掘った。女子青年たちはザルで手渡しして土を運び出す作業をさせられていた。壕の入口は稲福側で崖になっていて、首里に向いていた。

■「アメリカ軍は民間人を殺さない」と伝えてくれた隊長
稲福にいた時、大きな岩の下にあるクンザンシンズ(「国頭墓」。国頭から石俵大主の遺骨を移して造られた墓)※1のそばに私たちの壕はあった。岩は大きかったので私の父がそばから掘っていた。国頭墓には暁(あかつき)部隊が入っていた。遺骨はそばに片づけられていたので残っていた。上稲福(うえいなふく)(旧集落)には軍隊が駐屯していたが、その部隊には鉄砲もなかった。
隊長は大尉(たいい)で、北海道出身の部下の上等兵に言いつけて缶詰などを私たちに持ってきてくれて、私の父にも遊びに来るように言っていた。私も子どもだからその後ろに付いていって隊長の話を聞いていた。その人は酒が入ると口数が多くなった。「日本は負けることはない、勝つと思っているはずだが、この戦(イクサ)はだめだよ」と言っていた。首里が落ちる前から「負ける」と言っていたので、私たちは「この人はスパイだ」と疑っていた。隊長は「自分たちは竹槍(やり)しかない、こちらが1発撃つとアメリカ軍は20、30発も撃ってくるのにどうして戦えるか。アメリカ軍は民間人を殺さないから、どこに逃げようが手をあげて逃げなさいよ」と言っていた。2、3日後、隊長は「自分はもう必要がないから」と、勲章を外した軍服(上着とズボン)を、風呂敷に包んで兄に渡していた。
その後、手榴弾も不足していたので、隊長は黄色い棒状のものを3つ束ねたものに火をつけて爆発するか試していた。だが投げるのが遅れたのか、手に持ったまま爆発して、私たちが見ている前で爆死した。遺体は国頭墓から20、30メートル離れたところの岩陰に、部下の兵隊が立派に埋葬(まいそう)していた。その部下は捕虜になって沖縄戦を生き延び、「自分が持って行くから」と遺骨を取って内地に帰っていった。隊長は良い人だった。

■稲福の壕を出される
私たちは長い間壕に避難していたが、首里から逃げて来た兵隊が「アメリカ軍は長堂(ながどう)(真境名の東側)に来る」と言い、中頭方面から攻め寄せられた兵隊たちには「早く出なさい」と言われて壕から出された。本当は自分たちが入るためだったかもしれない。
私たちは着替え2、3枚と、ある分の食べ物だけを持って壕を出た。砂糖も樽(たる)ごとそこに置いて行った。同じ集落の仲元(屋号)の家族が「上原(戦後に民政府があったところ)の自分たちの畑の近くにガマがあり、水もあるのでそこに移動する」ということで、私たちもその後ろをついて行った。しかしそこには私たちが入れる壕はなく、玉城村(現 南城市)當山(とうやま)の山の中の岩穴に入った。上玉城前(屋号)の家族も一緒だった。そこにはたくさんの避難民がいて、奥武あたりの人達の墓も多かった。そこには一晩しかとどまらず前川(まえかわ)に移った。そこの川の両岸に2家族は入れないくらいの洞窟があり、みんな壕に入っていた。上玉城前の女性がそこで弾に当たって亡くなった。

■弾運びから逃げる
夕方になって兵隊が来て壕をのぞき込み、「男たちは出なさい」と動員を促した。私の兄は下痢をして横になっていたため、19歳だった私もかり出された。みんな上のウマイー(馬場(ばば))に集まるように命令され、200人くらい集められていた。他の兵隊たちが前線に出ているため、私たちは「弾薬を運ぶように」と指示された。
弾に当たって爆発するとみんな死ぬので3メートルくらい離れて歩くように言われた。指示をした兵隊が先頭に立ち「自分の後についてきなさい」と言って、弾薬を具志頭村(現 八重瀬町)港川(みなとがわ)方面に運んだと思う。「これは大変なことだ」と思った。
馬場から100メートルくらい行ったところにキビ畑があり、私はそばにいた人に「小便してくるから」と言ってそのふりをして、みんなが通り過ぎて見えなくなってから壕に戻った。翌日、同じように夫が動員された女性たちが「あなたの夫は戻っていないか」「自分の夫も帰ってこないよ」と夫の消息を案じていた。また今日も壕にいる人を集めるかもしれないと思い、私たちはそこから安里(現 八重瀬町)を通って糸満の真栄里(まえざと)に移動した。

■親との別れ
真栄里への移動前、父が「自分たち年寄りは歩いて糸満を越えることができない。君たちは若いから行けるところまで行きなさい。自分たちは稲福に帰るから」と言い、両親と西大屋(屋号)の人たちとは別れた。
終戦後にやんばるにいた時、親たちが宜野座の病院にいたということを知人から聞いて宜野座を訪ねたが、消息はつかめなかった。西大屋の人たちは生き延びた。

■爆風で家の下敷きになる
真栄里には父の友人がいて、その人の家は台所が残っていたのでそこに避難した。その近くに爆弾が落ち、爆風で倒れた家に押しつぶされたが、都合よく梁(はり)が石積みに被さって助かった。一時意識を失っていたが、どのくらい経ったか、気が付くと首筋から熱いものが流れてくるので不思議に思った。弾に当たっていたが、梁が当たったのかと思った。
傷口は服で結んだ。おじさん達が「福梁よー」と叫んで探していて、「アイエナー生きていたか、家の中で死んだと思っていたよ」と話していた。
私のそばにいた知らない人は、腹を裂かれて内臓が飛び出ていた。当時の家は茅葺(かやぶき)だったので、茅を抜き取って桁(けた)を外した穴からその人と一緒に這い出た。その人は私に「水を飲ませてくれ」と言ったが、自分も体を支えるのが精いっぱいだったから飲ませられなかったし、そのような人に飲ませてもすぐに死んでしまう。もう1人は桁に首を挟まれて即死だった。爆弾はずっと後ろに落ちたが爆風にやられた。破片も屋敷に飛んできた。
一緒に避難していたのは10人ほどで、捕虜に取られたあとその人たちと病院で会ったが、「爆弾で耳が聞こえなくなっていた」と言っていた。私は左の首に今でも小さな破片が刺さったまま残っている。病院では初め「あなたは魚を食べたのか」と聞かれたが、「そこには血管や神経が通っているから、破片がそこで止まっていてあなたは運がいい」と言われた。

■南部を逃げ惑う
その後、私たちは喜屋武(きゃん)(現 糸満市)に逃げたので、真栄里の父の友人がどうなったのかはわからない。
喜屋武では集落の中に入らず、海岸のアダンの木の中に避難していた。壕はなかった。そこはよい隠れ場所だったが、私の兄嫁が抱いていた知人の男の子の頭に弾が当たって亡くなった。その子は県外に疎開する予定だったが、私の兄が可愛がっていてその子もなついており、「沖縄が良い」と言って疎開には行かず犠牲になった。その場所に穴を掘って立派に葬(ほうむ)り、遺骨は戦後もその場所にそのままあった。
アメリカ軍の飛行機はよく連絡が取れていて、トンボ(アメリカの小型偵察機)が飛んでくると後から機銃で攻撃された。一生懸命逃げたが飛行機にはかなわないのでソテツの中に隠れた。夜はそこから島尻に突破するため海岸沿いに歩き続けた。
アメリカ軍の中にはハワイにいた日系2世も多かった。島尻に行っても壕にこもって出てこない人たちが多かったので、2世が「何もしないから出てきなさい。出ないと焼かれてしまうよ」と投降を呼びかけていた。飛行機からも投降ビラが撒かれていた。それで長い間、壕で頑張っていた人たちも出てきた。兵隊と一緒に入っている人たちは兵隊の言うことを聞いて出ないことが多かった。私は逃げる方が良いと考えていた。
私は喜屋武から具志頭村の玻名城(はなしろ)(現 八重瀬町)に出た。食べ物も何もなかったが壕はたくさんあり、その中で避難民の家族が亡くなっていて、食料品は残されたままだった。そこにンムクジ(すりおろしたイモ)が袋の中にあり、水がないので海水を汲んできて炊いて食べたが食べられなかった。ひもじいのでそれでも食べると下痢をした。

■畑の中で捕虜になる
捕虜になったのはギーザバンタから玻名城に移って畑の中に隠れていた時だった。私は近くにアメリカ兵がいることに気づかずサトウキビを食べていた。近くの畑の中に日本兵がいて、「天皇陛下万歳」と叫んで畑の中から1人も出てこなかったので、10人くらいのアメリカ兵が鉄砲をかまえて手榴弾を投げ込んだ。私たちは手をあげて捕虜になった。これが6月20日頃だった。女性たちはワーワー騒いで手をあげて出て行った。手をあげなければ手榴弾をどんどん投げ込まれたかもしれない。私たちはわからなかったが、アメリカ兵はあとから入ってきたのだと思う。
一緒にいた避難民は、日本兵に「捕虜になったらアメリカ兵に海に投げ込まれたり、並べて戦車でひき殺されたりする」と言われていたと話していた。私たちは日本兵と一緒に行動しなかった。兵隊と一緒にいたらやられていた。稲福にいた時、隊長に「民間人だと手をあげると攻撃されないから捕虜になった方がいいよ」とよく聞かされていたから、私はいつも逃げる方がいいと考えていた。

■仲伊保(なかいほ)からやんばるへ
捕虜になってから具志頭村の小学校の運動場に集められた。そこには何ヵ所かテントが張られていたが、何もないのでそのまま地べたに寝た。捕虜は各地から集められていた。煮炊きをする鍋や釜(かま)もないので、朝はアメリカ軍の携帯食料が配られていた。女性たちはアメリカ兵の服を洗濯して、何もかももらって来ていた。
そこには2、3日いて、今度は佐敷村(現 南城市)の仲伊保に移動させられた。屋比久(やびく)かどこかに大きな事務所があって、人々はそこに車で連れて行かれて取り調べられ、民間人と軍関係者(兵隊や防衛隊など)に分けられた。兵隊と防衛隊はそこから屋嘉(やか)(現 金武町)の捕虜収容所に集められていた。屋嘉では沖縄の人が内地の兵隊を相当こらしめていたという話を聞いた。
私たちは仲伊保から与那原に移動して大きな船に乗せられ、久志(くし)村(現 名護市)の二見(ふたみ)に連れて行かれた。船の中で女性たちが「そのまま海に捨てられるのか」と言うので、「そんなことはしないよ」と話していたらやんばるに着いていた。
稲福の人たちがいるかと思って嘉陽(かよう)(現 名護市)まで行ったが、歩いての往復は大変だった。嘉陽には稲福の人は1家族しかおらず、二見と大川(おおかわ)(現 名護市)、特に二見に多くいた。だがたくさんの人がマラリアに罹(かか)って亡くなった。マラリアに罹ると2、3日に1回は激しい震えが来た。毛布が1枚しかないからみんなの毛布を3、4枚被せ、さらに上着などを重ねても震えは止まらず、1時間ほど震えていた。老人の多くが罹っていたが、私は1回しか罹らなかった。

■戦果で食いつなぐ
元気になると、二見からアメリカ軍がいた名護に戦果(センカ)を挙げに行った。収容所では自由に移動できなかったので、隠れながらの移動だった。二見から上の三叉路に出て、右に行くと名護に出る。三叉路には憲兵(けんぺい)、二見側には巡査が立っていたので、そこを避けて山の中の麓(ふもと)の川沿いを歩いて行き、憲兵がいるところから4キロくらい離れた場所から道に出て行った。道ではアメリカ兵に出会っても、憲兵でなければ捕まえることはしなかった。
足が丈夫な者はみんな名護に戦果を挙げに行っていた。ある家の老人たちは、アメリカ兵がトラックで掘った穴に残飯を捨てると空き缶を持って行き、腐れていない硬いものを手でもみほぐしながら集めてきて、家で洗って食べていた。私は大里村出身者3、4人くらいで行った。
名護の南外れの浜には食料が置かれていた。そこの金網(かなあみ)は木を立てて張ってあるものではなく巻かれた網だった。そこに名護の空き屋敷の崩れた家から角材を取ってきて置いてあったので、その板で金網を押しつぶして中に入った。監視は1人しかおらず、1周してくるのに14、5分かかっていた。その間に渡しをかけて、私ともう1人が金網の内側に入り、金網の外に待機していた他の2人にメリケン粉や缶詰などを中からどんどん投げ込んだ。もうやがて監視が来るという時に金網の外に出た。15分以内に取ってきたがメリケン粉は重かった。
2、3日に1回戦果を挙げに行ったおかげで私たちはひもじい思いをしなかった。1人あたり米2合の配給もあったがそれだけでは足りなかった。私たちはメリケン粉を4家族で分けた。若い人たちがいるところは食べることができた。
二見には7月から11月くらいまでいた。元気な者は家を造るためにやんばるから大里の目取真(めどるま)や大城にかり出されていた。目取真と大城にはやんばるから移動してきた人たちが集められていた。私たちは二見から大城に移動し、島仲(屋号)の屋敷に入っていた。

■稲福の再建
大城には正月前までいたが、そこから稲福に通って仮小屋を造っていた。その頃からフィリピンや南洋からの引揚(ひきあげ)者も帰ってきていた。正月は稲福で迎えた。上稲福はアメリカ軍が占領していて、私たちが大城にいた時には上稲福に家を建てる許可は下りず、のちに軍が方々に移動してから認められるようになった。私たちの家は自分たちで建てた。茅は各世帯から20〜30束ずつ割り当てがあった。
稲福に帰ってきた当初は、区民は50人ほどしかいなかった。アメリカ軍で働いている人もいて、集落のある男性が軍からブルドーザーを借りてきて集落の中を整地した。別の男性は自分の畑を整地して他の家族に譲っていた。稲福の各戸の畑はそれぞれに段差があったが、その頃にほとんど平坦に整地された。道と畑の境界や、家と家の境界がわからないこともあったが、境界を分けるのに詳しい男性が集落にいて、役場から古い図面を借りてきてバンジョウガニ(曲尺)で確定していた。現在の中道はもともとあった。
稲福の上原にはアメリカ軍がいた。アンマー達がそこのチリ捨て場からメチール(工業用アルコール)を拾ってきた時に、それを何人かの男性たちがもらい受け、ジャムや砂糖を入れて飲んで亡くなった。飲んでからずっと寝たままで目も見えなくなり、車に抱き上げて乗せて病院に運んだ。少ししか飲まなかった人は助かった。
玉城村(現 南城市)百名(ひゃくな)に警察があった時、そこの部長が兄の友人だったので、許可を出してくれてやんばるまでトラックで行けた。やんばるで山羊や豚を買って方々に売り歩いた。当時、山羊はいなかったから貴重で、山羊と畑などの土地を交換した人もいた。また、やんばるから仕入れた豆も島尻にはなかったからみんなに分けた。稲福では2、3合ぐらいずつ分けて植えさせて、それが広がっていった。

■兄の戦争体験
長兄から聞いた話によると、球(たま)部隊の兵隊は鉄砲を持っていたが、あとから入ってきた暁(あかつき)部隊は鉄砲がなく地雷を持っていて、アメリカ軍の戦車が通るとタコツボから投げつける作戦だった。だから首里の戦線も日本軍は長い間頑張っていた。首里の前で手榴弾を投げたりしていたが、あとからアメリカ軍は飛行機を使って首里を攻撃したので、首里ではだいぶやられた。
兄はけがをしてどこをどう通って来たかわからなくなっていたようだが、けがをして南風原の病院壕に収容された。そこから歩ける人は歩いて、歩けない人は薬を飲まされて自決したとのことだったが、兄は這(は)って出て元気な人が車に乗せてくれたそうだ。
(知念昌徳による聞き取り 2008)

■脚注
※1 稲福の旧集落の西端部の傾斜面中腹にあるイリの墓のことか。イリの墓は戦時中、日本軍の弾薬保管所として使用されていた(『南城市の御嶽』南城市教育委員会編集・発行 2018 368頁)。