■自爆兵にされる
私は昭和20年(1945)2月に防衛隊に召集(しょうしゅう)され、竹やりを持って港川(現 八重瀬町)に行った。アメリカ軍は港川から上陸するからということだった。召集令状(れいじょう)は父が受け取った。
私たちは具志頭村具志頭(ぐしちゃん)(現 八重瀬町)の東側の外れ(現在の具志頭ドライブインレストラン跡地)近くに配属された。その近くの山の中には炊事場があり、そこから飯上(めしあ)げしていた。私たちは下側の方に配置されていた。
港川では、石を割る発破のような爆薬を詰めた10キログラムほどの木の箱を背嚢(はいのう)のように背負って、道のそばのタコツボから戦車に体当たりする作戦だった。自爆させられるところだったが、運よくアメリカ軍が港川から上陸しなかったからよかった。3回ほどB-24(アメリカ軍の重爆撃機)が海から攻撃してきたこともあったがしのぐことができた。
■特攻艇(とっこうてい)を運び出す任務に就く
私たちは特攻艇を出す役割に就かされていたが、あまり仕事はなかった。特攻は、特攻艇に乗ってアメリカ軍の戦艦に体当たりする作戦だった。特攻艇に積む2つの爆弾は4人で担ぐほどの大きさで針金で固定していた。
2、3回ほどは、演習で壕から特攻艇を出す訓練もしていた。船が浮くところまでレールが敷かれていて、両側から木を挟んで担いで出した。弾薬は別で壕の中に運ばれていた。担ぐ人たちは日本兵に叩かれることもあった。
特攻に出る兵士たちの食べ物はぜいたくだった。彼らは昼も夜も酒を飲んで暴れることもあり、私たちは腹を立てることも多かった。
実際に艦船へ特攻をしたことはなかった。アメリカ軍の艦船は昼は沖で停泊していてはっきり見えなかった。夜になると電気が輝いていた。艦船はたくさんあったがその後やんばるに移動したということで、日本軍の特攻もやんばるに上がったと日本兵は言っていた。
また、玉城村(現 南城市)糸数の大きな壕から米を担ぎ、前川(まえかわ)を通って、具志頭の飯上げするところまで運んだこともあった。この作業では屋号前大屋の昌一さんと、大城の島袋朝徳さんのお父さんと一緒だった。3人で前川から担いで行ったが、毎日雨が降り続いていたので泥んこ道の坂を運んだ。私は19歳だったので2人が交代して運んでくれたが、2人はずっと担ぎ続けていた。
そのほか、真玉橋(まだんばし)(現 豊見城市)に30〜40センチほどの弾薬を2本背負って運んだことも一度はあった。途中、玉城村船越(ふなこし)の精米所があったところでアメリカ軍の攻撃があり、土手の陰で隠れて難を逃れたこともあった。泥んこ道から帰る時、山川橋(現 南風原町)あたりで、けがをして歩けない兵隊がお尻を引きずりながら通っていた。
■アメリカ軍が港川に上陸
アメリカ軍の艦船1隻から私たちのいる岩場に向かって、太鼓を打つようにポンポンと砲が撃ち込まれた。具志頭方面がやられたと思ったが何も被害はなかった。音が止まって10分ほどして飛行機が飛んできて、爆弾が落とされた。
それから一週間後、アメリカ軍はいきなり港川から上陸してきた。港川の採石場(さいせきじょう)の後ろ側は平坦な畑になっていたが、そこにテントを張りめぐらせていた。
家から出て10日ほど過ぎてから、兵隊の古い軍服を着せられて、港川から具志頭に移動した。その集落の東側はすべて石山だった。大きなカー(井泉)の近くには畑も少しはあり、夜になるとそこを通って交代で食事を取りに行ったが、小さくて険しい道だった。畑にはキャベツも植えられていたが、日本兵が近くに地雷を埋めているのがわかっていたので取って食べることはなかった。
具志頭の隣の玻名城(はなしろ)集落(現 八重瀬町)の道のそばに製糖場があり、砂糖が樽ごと置かれていたので、私たちは10人ほどでそれを交代で担いで取ってきて、暇な時には釘でほじくって食べていた。白水川(シランガー)から上ったところには具志頭の飯上げするところがあったが、そこは炊事場だけでなく、1階・2階がけが人の収容所にもなっていた。10段ほどに棚を作って歩けない人ばかりが収容されていた。排尿もそのままだったので口論が絶えなかった。
■アメリカ軍の攻撃で散り散りに
具志頭が攻撃され、そこから逃げて後は散り散りになった。前川のガンガラーのところから近道で具志頭村新城(あらぐすく)(現 八重瀬町)を横切って、具志頭集落の西側に出た。
その後、民間人や兵隊が隠れていた真栄平(まえひら)(現 糸満市)の後ろの山に入った。具志頭から真栄平まではどのように歩いて行ったかわからない。まだ明るかったので昼間に移動したと思う。夕暮れ時、低木の茂みに隠れてサトウキビを食べて座っていたが、2、3メートルほど離れて岩場の陰に座って隠れていた稲福の屋号新屋小の長男(玉城フクシン)が爆弾の破片の直撃を受け、そこで亡くなった(ここが真栄平だと知ったのは戦後、上玉城の孝吉さんと遺骨を取りに行った時である)。爆弾は遠くに落ちても破片が飛んできてやられることがあった。
真栄平の後ろに来てからは散り散りに避難している状態だったが、前下門の長男たちも近くにいたかと思う。誰とだったかは覚えていないが、夜に芋を掘って炊いて食べようとしていたらそばに他の避難民が隠れていて、今にも殴りかかるかというほどの剣幕で「今そこで火を焚いたら見つかってしまうではないか」と怒鳴ってきたので、もう少しで炊けるところだったがあわてて鍋をひっくり返した。
そこへ前大屋小の昌一さんが来て「ここから出て行ったほうがいい、あんたがたは逃げないのか」と言ったので、彼らと一緒に山から下り、しばらく近くに隠れていた。下りる所は2股に分かれていて、真栄平に行くところは平坦だったが、伊敷(いしき)(現 糸満市)に行くところは下り坂だった。洗濯をするカー(井泉)があり、夜中に通って真壁(まかべ)(現 糸満市)に行ったと思う。
仲前大屋の家族が真壁の後方100メートルほどのところにいて、その間には一面の畑があり、その先に道があった。彼らとそこで行き会い、その後はずっと一緒に避難した。真壁では、家はあるが屋根しかなく壁はなかった。家は以前から来ていた避難民がいっぱいで入れず、私たちはそばの方で隠れていた。弾もどんどん落とされていたが隠れる場所もなかった。島尻ではほとんどそのような状態だった。
前糸間のトミさんの息子のカズオたちも少しだけ離れていた。大屋門のカマルーたちとは近かった。戦後、カマルーの遺骨はそこで拾った。「畑のそばの小山になったところに万徳の長女(スミコ)の遺骨がある」とナカタンメーのハルコさんたちが言っていたので、遺骨はそこから取り出した。前糸間のカズオの遺骨の足の骨は、馬の骨のように骨太で大きかった。遺骨を拾いに行った当時は20キログラム入りのアメリカ製のカマジー(カマス。わらむしろでできた袋)を持っていったが、その袋にも入らなかった。
■あきらめてわが家に引き返す
もう自分たちの集落に行こうということで、福地(現 糸満市)の下側付近の坂のところに行くと、あたり一面は死体の山になっていた。もう帰れないと思い、死体も踏みつけながら逃げた。ひもじいので、途中で亡くなった人の持ち物から取った米を海水で炊いて食べようとしたが、苦くてとても食べられるものではなかった。
仲前大屋の家族と、波上祭(ナンミンサイ)みたいに避難民の群れの流れに沿って歩き続けた。わざとすり切れた洋服を探して着ていたが、厚手の冬物しかなくとても暑かった。福地からは喜屋武(現 糸満市)に下り、海岸伝いに摩文仁(まぶに)(牛島中将(ちゅうじょう)が自決したあたり)を通って、海の近くから水が湧き出るところ(ギーザバンタ)に行った。
ギーザバンタを通って自分たちの集落に帰るつもりだったが、そこでは大勢の人が死んでいた。そこにいってもやられるから戻った方が良いと、先の人たちが付けたロープを伝って上に上がったら、その先にアメリカ軍が鉄条網(てつじょうもう)を張り巡らせていたところに出た。用心深く、ようやく玻名城の後ろ側に越えていくと大きな道に出た。狭い道から畑に入った。
■仲前大屋のお母さんが手を挙げて捕虜に
アメリカ兵が歩いていたが、避難民の男の人たちは吸殻(すいがら)を探していた。近くではアメリカ兵が顔に石鹸をつけてひげを剃っていて怖いと感じた。私たちはひもじかったのでサトウキビを食べるために畑に入った。誰かが「今出ないとアメリカ兵に撃たれるよ」と叫んだので、仲前大屋のお母さん(文栄さんの妻)が1番先に手を挙げて出て行った。
出ていくと、ひげを剃っていたところでいろいろと取り調べられた。その時に、アルゼンチン帰りの継父(玉城ゼンスケ)からもらったペンと時計を取り上げられた。それは港川に召集される日の朝にもらったものだった。アメリカ兵は、民間人の服を着ていても若い男性(防衛隊員)は見分けていた。畑で捕虜になって玉城村富里(ふさと)あたりの収容所に入れられた。
■船で屋嘉収容所へ
さらに6月には佐敷村(現 南城市)新里に移動したと思う。民間人でない者は家に寝そべることを許されず、座りっぱなしにさせられた。
新里で民間人と分けられた後、私はどこからか船に乗せられて屋嘉(やか)(現 金武町)の捕虜収容所に収容された。私たちは我慢ができずありのままのことを話して早く尋問(じんもん)に応じたので、すぐに屋嘉に収容された。防衛隊であったという身分を明かさなかったらずっと留め置かれていたと思う。
屋嘉はよかった。いろいろな食べ物の配給(はいきゅう)があり、チーズやシーチキンみたいなもの、お菓子やたばこもあった。私は具志川の赤道(あかみち)(現 うるま市)や久米島の人と3人1組になって、互いの配給物を出し合い、100オンスの缶に入れてごみ焼き場で共同で炊いて食べた。初めの4、5日は要領がわからなかったが、首里の人たちがそのようなことを考えてやっていた。私たちはたばこを吸わなかったので缶詰1つと交換していた。チーズも食べたことがないので他のものと交換した。屋嘉には長くいた。
■東喜で稲福の人たちに合流
その後、継父のゼンスケが引き取りに来てくれて東喜(とうき)(現 名護市二見)に行った。東喜には稲福の人たちが多くいた(仲前大屋、上玉城、上万徳前、西大屋)。集落は道から150メートルほど奥に入ったところにあった。
そこでは芋などを作っていたが、マラリアに罹(かか)って寝込む人が多かったので作る人は少なかった。砂地なので夜に芋を掘っていたが、他の人が掘った後に新たに芽を出した芋なので、たまにしか見つけることはできなかった。人参はよくあったがそれでも満足するほどにはなかった。遊ぶところもなかった。
東喜では浜のそばに小さな家が並んでいて、畑といってもわずかしかなく、半農半漁のような貧しい佇まいだった。川のそばに竹(ダイサンチク)がたくさんあり、戦後稲福ではそこからざるを作る材料の竹を取り寄せていた。
東喜には長くいて、仲前大屋の福梁さんはそこで芝居もしていた。
■マラリアで多くの人が犠牲に
東喜でマラリアに罹(かか)った稲福の人は多かったようだ。誰が亡くなったか私はよく知らないが、伊森小のウスメーも亡くなり海の近くで埋葬(まいそう)したと聞いた。はじめは一人ひとり埋葬していたが、あとから死者がたくさん出たため1つの穴に入れて埋葬していた。私も東喜に来てから一週間もたたないうちにマラリアに罹ったが、上玉城の孝吉さんだけは罹らずに元気だった。
■稲福の集落移動
東喜から大見武(おおみたけ)(現 与那原町)に行き2ヵ月ほどいたが、そこから大里村大城に収容された。大城にはかなり長くいた。
大城にいたとき、大城の人たちが「稲福は大城に近いから、大城に合併した方が良いのではないか」と言っていたが、稲福の長老格の人たちは「2、3人いても自分たちの集落を作らないといけない」と反対して現在のところに新しく集落を作った。
当時中心的に動いたのは仲元の福明さん、仲前大屋の文栄さん、嶺井(屋号)の玉城ゼンキチさん、大前のシンコウさんだった。その人たちに新万徳門のセイスケさんが協力して、新しい集落作りが始まった。以前から現在のところに集落を移す考えがあったようだったが、当時は自給自足の生活だったので、耕作地が少なくなるとの理由で老人たちが反対し、なかなか実現することができなかった。結果的に、戦争によって集落移転が実現したことになった。
新万徳門のセイスケさんは私より4歳下だったが軍で働いていて、彼が軍からブルドーザーを借りてきて宅地造成と道路整備を行った。水道は軍にいたハワイ出身の人がアメリカ軍と交渉し、中古のパイプを譲り受けてきて作った。タンクは東側(現在の東伊前の前)と前太(当時の屋敷)の後ろ側に南風原村(現 南風原町)の人が粟石(あわいし)で造った。造成工事は区民が大城に収容されている間になされていた。造成工事の時には具志頭村新城に若い請負人がいて、自分で採石場も持っていた。田んぼのような状態だったので、石を入れると泥がそばにあふれるほど相当多くの石が入れられていた。儲けがないように思えたが、それでも立派に造ってくれた。老人たちは「この道は頑丈にできているから絶対に壊れないよ」と言っていた。
初めは宅地を造るため、現在の主要道路と前仲元の通りの2本の道が造られた。住宅は最初、主要道路沿いに前平良小、新万徳門、東伊前、前太、嶺井の家を、アメリカ軍払い下げのトゥーバイフォーという角材を組んだ真四角の規格住宅(きかくじゅう)で建てた。屋根は茅(かや)で葺いていた。土地は前大屋のものだった。その後から自分の土地に各自で家を建てたようだ。伊森や前平良、伊森小前は自分の土地に家を建てていたようだが、伊森小前などは台風が来るたびに壊されていた。
元の集落には民政府の職員たちの住宅が建てられていたが、それらもトゥーバイフォーの規格住宅だった。屋根には茅やテントカバーを被せているものもあった。稲福の青年たちは、民政府の職員が那覇に引っ越すときは荷造りや家財道具などを車で運ぶなどの作業を手伝っていた。
■メチルアルコールを飲んで死者が出る
集落を移転した当時、アメリカ軍が使用したメチルアルコールを飲んで亡くなった人たちがいる ※1。私も夜中に起こされ、病院に搬送する手伝いをした。新万徳門のセイスケさんが軍の大型トラックの運転手をしていたので、彼のトラックで玉城村百名の病院に運んだがそこで亡くなった。
(知念昌徳による聞き取り 2015)
■脚注
※1 聞き取りをした知念昌徳が母(ウト)に聞いた話・・・稲福の上原に民政府があった頃、区民はそのごみ捨て場から使えるものを探していた。ある人が水缶を拾って入っているものをこぼそうとしたとき、男性たちが「これは飲めるから」ともらい受けて家に持ち帰り、ジャムか何かと混ぜて飲んでしまい、亡くなったようである。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015704 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 92-98 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-稲福 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |