■軍属として勤務
私は昭和19年(1944)の8月頃から軍属(ぐんぞく)として働いていた。食べるものもあって、賃金の支給も受けながら働いた。十・十空襲(1944年10月10日)までは、賃金をもらうと妻のところに届けていた。
沖縄戦の時には垣花(かきのはな)で解散になったが、夜だったので当てもない歩き方をしていると津嘉山(つかざん)(現 南風原町)付近に出た。するとそこで手りゅう弾を持った日本兵2人に止められた。1人が私の襟首(えりくび)をつかまえて、短刀を振りかざして殺す構えだった。私は軍属でカマス(わらむしろで作った袋)のような服装をしていて、武器も何も持っていなかったので結局何もされなかった。武器を持っていたら殺されていたと思う。
■足をけがして捕虜になる
その日本兵から「津嘉山集落の中に行きなさい」と言われた。辺りは焼け野原だったが、そこからまっすぐ行くように言われてそうすると、津嘉山集落の後ろ側には全部テントが張られていてアメリカ兵がいた。「この人たちは私を騙(だま)して敵の中に行かせたんだ」と思った。
津嘉山集落の背後にあった民間の壕に入っていた時、アメリカ兵が来て英語でペラペラ話しかけて銃をパンパンと撃った。私は足のくるぶしと足裏の横あたりと3ヵ所に傷を負い、くるぶしの骨が2つに割れた。私は「どうせ死ぬのだから」と横たわって動けないでいると、傷が痛みだしてガタガタと震えていた。それからアメリカ兵は缶詰を開けて私に「食べなさい」と差し出したが、私は怖いから食べなかった。するとアメリカ兵は自分が食べて見せてから私にあげた。
そこから与那覇(よなは)(現 南風原町)のウサン嶽(ダキ)の下の大広っぱに連れていかれた。そこにアメリカ兵が来て英語で話しかけてきたが、私は英語がわからないし捕虜になっていたから返事をしなかった。アメリカ兵はその次に日本語、そしてウチナーグチで話しかけてきて、「どこから来たか」と聞いてきた。「大里から」と答えると、「大里を見せようね」と言って与那覇の高台になっている場所に連れていかれた。そこから大里を見ると全部石ころだらけで木一本もなかった。
私は名札をしていたので、「あんたは軍属か」「学校はどこを出たか」と聞いてきた。「私は学校を出ていない、無学である」と答えると「名前は誰が書いたか」と聞くので、「自分で書いた」と答えた。もう死ぬと思っていたので何もしなかったが、いろいろ聞かれたので大変だった。そこから治療をしに稲嶺十字路近くの一丈(約3メートル)の谷底に連れて行かれた。
■捕虜収容所
それから中頭のどこかに連れて行かれ、日本兵10人と沖縄の人間10人が一緒になってテント村で寝台での生活をした。私たちの担当のアメリカ兵は私と同じくらいの年で、私に「年はいくつか」と聞いた。私は口では言えないので指を出して「30歳」と示した。さらに「子どもは何人か、男の子か」と聞いてきたので、1人で女の子だと答えた。彼は「自分の子も女の子だ」と言っていた。その兵隊と友達になったので、彼は私にタバコのケース(4本入り)を朝昼晩、20人の同僚の収容者に配る役目をさせてくれた。
同じ同僚に豊見城の渡橋名(とはしな)の人がいたが、その人が同僚のジャパニー(日本兵)に、自分の性器を掴まえて排尿させなさいなどと言われたと聞いた。それで腹が立ってその日本兵に、「お前らも横着すると許さないよ。戦争に負けてもお前らは階級で自分たちを扱おうとするのか。威張ると私が許さないよ」と言ってやり、その日本兵の傷がある箇所にタバコのケースを投げつけて泣かせてやった。
そうこうして過ごしていたが、そこから屋嘉(やか)(現 金武町)の収容所に行かされた。屋嘉でも全部イクサ(厳しい収容所生活の意味)だった。
(知念昌徳による聞き取り 2008)
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015703 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 90-91 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-稲福 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |