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知念正徳(大正14年生まれ 大里・稲福)【キーワード】陸軍初年兵/南部避難/収容所

■稲福から見た十・十空襲
戦前の稲福集落は今よりも上の方にあった。
昭和19年(1944)10月10日の空襲の時には、ハンタ(崖)という場所があり、長堂(上稲福(うえいなふく)から真境名(まじきな)の上方に行く途中)に行くところで那覇がよく見えた。稲福にいた兵隊は「敵だ、敵だ」と叫び、隠れるようにと指示された。

■伊良波で初年兵教育
私はそれから5日後の10月15日に軍に入隊した。稲福のムイ(丘)の殿(トゥン)(拝所)に行く手前の近くに広場があり、そこで区長が午前2時に鐘を打って、青年会、婦人会、一般の人たちを集めて私を見送ってくれた。私は「必ず勝ってアメリカー(アメリカ兵)達は全部やっつけてくるから、みんな元気で待っていて下さいよ。私の健康もお祈りしてくださいよ」と、ウチナーグチもヤマトグチも交えて大口を叩いてあいさつした。兵隊に行くまではアメリカの力を知らないから、本当に勝つと思っていた。「いつも勝つ」という教育だった。
私は父と、伊森(屋号)の長男(のちに戦没した)と一緒に午前2時に家を出た。南風原区からも一緒に行く人がいたので合流した。与那原から南風原村(現 南風原町)を通り、我謝(がじゃ)(現 西原町)に抜けて歩いて行った。集合は宜野湾の大謝名(おおじゃな)(現 宜野湾市)で8時に集まった。点呼が取られ、名前を呼ばれたので「はい」と手を挙げた。当時はこぶしを握って手を挙げていた。赤飯のおにぎりを渡されてから軍服に着替えた。履いていた地下足袋(じかたび)と帽子は親に預けた。靴と靴下を渡されたが、靴下を履くのは初めてなので「この袋は何をするものですか」と聞くと「足に履くものだ」と笑って教えられた。靴下は1組ずつ結ばれていたが不ぞろいだった。入隊したばかりなので文句も言えなかった。
大謝名から歩いて牧港(現 浦添市)、安謝(あじゃ)、泊(現 那覇市)を通ったように思うが、そこから真玉橋(まだんばし)経由で、豊見城村伊良波(いらは)(現 豊見城市)の粗末な茅葺(かやぶき)の公民館に着いた。そこで100人ほどが一緒に入隊し、そこに寝泊まりして3ヵ月の教育を受けた。1班、2班、3班と、各班30人ぐらいに編成された。班長は1班がタカハシ、私がいた3班はヨシモトという名だった。
那覇から糸満への道はコンクリート道だった。軍隊が使う道は民間人は通れなかった。地元の人たちは、すぐ目の前に自分の畑があっても遠回りしていた。文句ひとつ言うことも許されなかった。
中隊長は帰って来ると床に腰を下ろしていたが、脚絆(きゃはん)も靴も私たちが脱がせた。中隊長の当番に当たった時、その日の食事は魚だったので、「偉い人に出すものだから」と、魚は頭や尻尾(しっぽ)よりも真ん中が美味しいと自分なりに考えて真ん中を持っていった。すると「何をばか野郎、こら貴様、私はこれ(頭)でしょう、頭を持ってきなさい」と身振りしながら怒鳴られた。私は言い訳をせず「はい、これから気を付けます」と言って下がった。

■地元の人たちに食べ物を分けてもらう
正直な話、食べ物は十分でなく、おにぎりが少しばかりしかなかった。初年兵の私は痩せこけていた。食事は飯盒(はんごう)の蓋に入れられていた。
夜は民家へ「おばあさん、芋を食べさせてください」と食べに行った。行く時には「知念、便所に行って参ります」と嘘をついて敬礼(けいれい)し、帰りも「知念、便所に行って参りました」と敬礼をした。沖縄の人は人情に厚く、「おあがりなさい、これはおじいさんのおかずですが、貴方様がおあがり下さい」と食べさせてくれた。
また同年代の女性達も人情があった。彼女たちは私の名を呼ぶのはいけないから、手招きをして「夕方おいでよ」と言ってくれた。私が芋を食べる目的で便所に行くふりをしたところに「兵隊さんおいで、おいで」と手招きし、自分たちもご飯を腹いっぱい食べていないのに食べさせてくれた。夜は鉄砲を持って1時間交代での立哨(りっしょう)があり、同僚に「女たちが芋を食べに来いと言っているから、万一のことがあったら呼びなさいよ」と合図をして行った。彼女たちは隠れて芋を持ってきてくれただけでなく、シチビ(正月や盆などの節日)には豆腐や天ぷらがあり、「兵隊さん、今日はご馳走があるから食べにおいでね」と、皆の前では目配せをしたり、見つからないように小さい声で合図をしてくれた。戦前の屋敷囲いは竹で作られていて、竹に下げてあったのを見つけて食べた。
たまのご馳走の時には食べた翌日が大変だった。翌日から下痢が始まるのが怖かった。便所は山の中に穴を掘り、板を2枚置いてあるだけのものだったが、そこまで我慢することができなくて道のそばで用を足した。拭く紙もなかったので木の葉で済ませた。
鉄砲は立てかけて置く場所があり、外に食べに行く時に持って行くことはなかった。鉄砲は皆同じ形でナンバーも打たれていたが、毎日使うので、一週間もするとどこに傷があるか触ってすぐわかるようになった。演習の時は、鉄砲の先に今の10円玉のような硬貨を置き、呼吸を止め引き金を引いても落ちないように訓練した。

■渡嘉敷集落に移動
その後、具志頭村(現 八重瀬町)新城(あらぐすく)の各分隊に5、6人ずつ分かれた。私が行ったのは同じ豊見城の渡嘉敷(とかしき)という集落で、ある母子世帯の民家に5、6人で寝泊まりした。家主の娘は私より2、3歳ほど年上で、彼女たちを台所に押し込んで私たちは上の間にいた。気の毒に思ったが、上からの命令だから仕方がなかった。
日中は朝の8時から夕方5時まで壕掘りだった。6時に起床ラッパ、8時に集合ラッパ、夜9時に消灯ラッパが鳴らされていた。風呂もなく水を浴びていたが、あとからはドラム缶を探してきてお湯を沸かし、上官が入った後に私たちがはいった。
私は痩せていて若かったので、ここでも女性たちが豆腐や芋などを食べさせてくれたがすぐ下痢をした。宿泊先の民家の便所では音がするので、屋敷の外の他の家の石垣のそばで用を足した。ご飯も腹いっぱい食べられる量はなかった。

■手榴弾で撃たれる
アメリカ軍は昭和20年(1945)4月1日に上陸したが、当時はどこから上陸したのかわからなかった。私たちは新城から牧港、宜野湾の大山(おおやま)から普天間(ふてんま)を通って浦添の西原グヮー(現 浦添市西原)へ、トラック8台に砲や鉄砲、弾、自分の衣服なども乗せて夜中に移動した。そこには発動機(はつどうき)式の製糖場もあった。スパイを警戒し、出発時刻は秘密で夜の2時に移動した。
私は砲兵で、弾を3つに分離して真ん中に火薬を入れ、12人で担いでいた。「敵は大山に上陸しているからすぐ砲を撃つ準備をしなさい」と言われた。撃つ時には前に距離を測る観測隊(かんそくたい)がいて、そこから電話で「何キロ離れている」と連絡が来た。上官に報告すると、私たち砲兵に「火薬を何グラム増やしなさい、何グラム減らしなさい」など指示が出され、火薬の量で着弾距離を調節していた。電話線をカンポウ※1で切断された時には、無線がないので歩いて電話線のコードを延ばしていた。砲弾は鉄砲の弾のようにまっすぐには飛ばず、波打つようにして飛んだ。
突撃が始まってアメリカ軍に近づくと、砲は撃たず鉄砲や手榴弾での攻撃になった。鉄砲の弾も手榴弾も一線で渡された。その時に「これが鉄砲の弾だよ」と教えられた。
私が負傷したのは、日にちは忘れたが浦添の西原グヮーでだった。私はアメリカ兵が投げた手榴弾に撃たれて倒れた。アメリカ兵はそのまま去って行ったので日本兵が救出に来た。首と背中に受けた手榴弾の破片2個が今でも残っている。
西原グヮーから、現在の高速道路の入口(那覇インターチェンジ)にあった広場付近まで同僚4人が私を移送した。担架(たんか)もなかったので民家の雨戸(あみど)(板戸)を外してきて使った。砲弾が飛んで来ると私は馬車道の水が溜まっている轍(わだち)に降ろされ、担いでいた兵隊たちは畑の畦(あぜ)に隠れた。私は出血していて水を飲ませてもらえなかったので、その轍の溜まり水を飲んだ。夜できれいな水かもわからなかったが、傷を受けた時の喉の渇きはひどく、「水を飲めたら死んでもいい」とさえ思ったほどだった。喉の渇きは体験した人にしかわからない。

■同郷の女性に助けられる
私は喜屋武(きゃん)(現 南風原町)にあった陸軍病院の壕に運ばれた。私を担いできた兵隊たちは戻っていき、看護婦が私を壕の中に収容した。
そこで薬もつけられたと思うがウジが湧いた。1番苦しかったのはこのウジだった。ウジが肉を食うのは歯痛と同じで夜通し眠れず、いつも子どものようにシクシク泣いていた。
食べ物も飲み水も腹いっぱいはもらえなかった。壕の中の両側は溝になっていて、雨水や他の人の小便が上方から流れてくると、喉が渇いているのでそれも飲んだ。
私が助かったのは、そこで同じ稲福のヨシコという女子師範(しはん)生※2に出会えたからだった。女子師範の学生は兵隊の看護手伝いをしていた。彼女が名簿から私の名前を見つけて探しに来ていて、ウチナーグチで話しかけてきた。彼女は簡単な看護服を着ていて、私は彼女をはっきりとわからず「あなたはどなたですか」と聞いたら「新大前のヨシコだよ」と答えたので、「元気だよ、お願いね」と言った。
その後、「アメリカ軍が一日橋に来ているから皆出なさい」と命令が出た。私は自暴自棄(じぼうじき)になり「死んでもいい」と思って出ず、自決するための手榴弾も1つ渡されて持っていた。ヨシコが来て「なんで出ないか」と言ったので、「どうせ生きていても何もできないし首も曲がったままだから、ここで死んでもいい」と言った。するとヨシコがワーワー声を出して泣いた。それで彼女の気持ちにほだされ、彼女に手を引かれて壕を出た。そこで回されてきたトラックに乗せられた。拳銃を下げた憲兵(けんぺい)が馬に乗り、他の憲兵2人は立っていた。彼らがヨシコに「看護婦は降りなさい」と言った。ヨシコは「私は兵隊さんの付き添いですよ」と言ったが「看護婦は後の車で行きなさい」と叱られて降ろされた。私は車の上で泣き、彼女も泣いて別れた。彼女はのちに兵隊の言うまま自決し、神里(かみざと)(現 南風原町)で死んだそうだ。

■糸数アブチラガマ
私が乗ったトラックは喜屋武から大前墓地を通って大里村稲福、大城を通り、玉城村(現南城市)の糸数で降ろされ、糸数アブチラガマに収容された。地元の人たちはガマの片隅にいた。
ガマの内部は丸太造りの3階建てになっていた。座って頭がつかないくらいの高さで、私は重症だったので2階を当てられた。元気な人は3階で、はしごも丸太で造られていた。電気もないから見えなかったが、壕の中では水が流れる音が聞こえた。ご飯は上の外の方で炊いていて、おにぎりしか配られなかった。私はここでもウジが肉を食う痛みで寝れず、夜通し泣いていたら隣の人に「兵隊さんうるさいよ」と叱られた。それでも痛いので「アイエー、アイエー」と声を出して泣いていた。
そこでは昼も夜も、日にちもわからなかった。来て一週間ほどしてから、「アメリカ軍は大城まで来ているからみんな出なさい」と言われて壕を出た。

■一人きりでの避難
看護婦が1升くらいの米を袋に入れて「兵隊さん、お米」と渡していたが、「持てないからいらない」と言うと「むこうでは何もないよ、取りなさい」と言われた。それでも「死んでもいい、これが国のためだ」と思い取らなかったので、その人とは面識がなかったが「兵隊さん、死ぬよ」と言って泣かれた。私は自分の体さえも支えることができず米を取らないでいたら、彼女は「兵隊さん気の毒、せっかく国のために来たのに」と泣いて自分の米を持ってその後もついて来て、食事の世話をしてくれた。
糸数から船越(ふなこし)に下って愛地(あいち)を通り、糸満の大里にたどり着いた。そこまで一週間くらいかかったかもしれない。大きなガジュマルの木がある嘉手志川(カデシガー)の上の民家にいた。石垣は触るとすぐ崩れるほどのもので、一抱えの石を置いただけのものだった。そこの家族は避難していて誰もいなかった。けがのため水を汲むことができないので家には入らず、カー(井泉)に近い石垣のそばにくっついて一人で寝起きしていた。
夜にその家の主が道具を取りに来ていて、「兵隊さんけがをしているね、自分の壕に一緒に行きましょう」と言ってくれたが、私は「死んでもいいからどこにも行かない」と覚悟を決めていた。食事は畑からキャベツやンスナバー(フダンソウ)、ヨモギ、ニガナなどを取って食べていた。歯も取れていたので生芋は食べられなかった。糸数アブチラガマからついてきた女子師範の看護学生が、私が泣くのを見て他の人から飯盒(はんごう)をもらってきて、ご飯を炊いて食べさせてくれた。私は米を持っていなかったが、各壕に兵隊がいるので炊事場に「傷を受けた兵隊がいるから」と事情を話してもらってきていた。薪もマッチもライターもないので、ローソクでご飯を炊いていた。
それから喜屋武崎の海の見えるところまで行った。アメリカ軍の軍艦が停泊していて、「コロサナイ、タスケテアゲル、ミナテヲアゲテデテコイ、デテコイ」と言って投降を促していた。しかし私たちはユクガン(邪推)をして「口だけだよ、あの人たちは殺すよ」と出て行かなかった。
喜屋武崎には壕もなく、あっても入れなかった。私はウジ虫が出て臭いからみんなのところに行けなかった。「アヌ、ヒータイグヮー(兵隊)よ、臭いからあちらに行きなさい」と追っ払われた。普段は「兵隊さん」と呼ばれたが、傷を負うとそのような扱いだった。鉄砲も何も持たず、自分の身を支えることもできないから脅すこともできない。私はいつも一人だった。
私が捕虜になった場所は喜屋武崎だった。頭を撃たれたら死ぬので、岩陰に頭だけ入れて隠れていた。疲れていて夜も寝ていないから寝入ってしまっていたが、人が来る気配は分かっていた。足を掴まれて外に引き出され、見るとアメリカ兵だった。私は敵が来たらすぐ自決するつもりで、手榴弾をいつも腰に紐でくくりつけていた。とっさに手榴弾を取ろうとしたが腕を掴まれた。1人のアメリカ兵が結んである紐をナイフで切って手榴弾を自分の雑嚢(ざつのう)に入れた。身振りで「手をあげなさい」とされたので、そうすると武器を持っていないか全身を調べられた。

■おばあさん達に救われる
捕虜にとられた人は海に降りて、具志頭から与那原に出て中頭に連れて行かれる、という話だった。どこに連れて行かれるのか、海に投げ込まれるのか心配だったが、4、500メートル離れたところに捕虜として集められた大勢の避難民がいた。
その中の老女が「着ている服は捨てなさい。このおじいさん(老女の夫)の服を着て私たちの家族のふりをしていなさい」と小さな声で身振りを交えて言った。当時の私は病院服を着ていた。また、そのおばあさん達に「何の年生まれか」と聞かれたが私は干支(えと)がわからなかった。年齢を伝えると「あなたは丑(うし)年の生まれだが、アメリカ兵に聞かれたら辰(たつ)年(昭和3年)と答えなさい」と教えてくれた。そのおばあさんは私を「イヤーや」(おまえ)でなく「ウンジョー」(あなた)と呼んでくれた。
私は鉛筆なども持っていなかったので何度も辰、辰と暗唱していた。日系2世のアメリカ兵に年を聞かれたので「18歳」と答えると「何年生まれか」と再度聞かれた。「何のことですか」と聞き返すと「子(ね)とか何か」と言うので、「辰年です」と答えたら「あなたは兵隊ではないんだね」ということになった。
その後たくさんの民間人と一緒にトラックに乗せられ、どこに連れていかれるか心配だったが、豊見城の伊良波に収容された。私は入隊も収容所も伊良波だった。そこには病院があったが、金網を張って2階の高さほどのやぐらを建て、兵隊が鉄砲を持って監視していた。収容所は兵隊のところと民間人のところで分けられていて、私は民間人の方に入れられた。
ある時、トラックから同じ集落の福吉(屋号 前平良)が降りてきた。彼は兵隊の収容所に入れられていたので、私は彼を呼んで「こちらに来なさい」と誘った。金網は丸く巻かれたものだったので、トゥーバイフォー(2インチ×4インチの角材)を差し込んで持ち上げ、福吉をこちらの金網の中に入るよう手招きして入れた。彼は軍服ではないがそれに近い服装だったので、収容所のおばあさん達から服をもらって民間服に着替えさせた。

■久志の米軍病院
それからトラックで久志村の久志(くし)(現 名護市)に連れて行かれ、私はそこの米軍病院に入った。福吉はどこも負傷していなかったが、私は自分の病院に連れてきて、治療時間になると「便所に行っておきなさい、終わったら来るんだよ」というふうにしていた。
病院では寝台に寝かされ、向かいの人が亡くなるのが見てわかった。炊事のおばさん達が食事を配る時は、すでに亡くなっていても毛布を被ったままの人を生きていると思い、そちらにもお握(にぎ)りと飲み物を配っていた。私は福吉にその食事を取って来させた。私たちは奪い合って食べていた。人間は飢えた状態にならないとわからない。気の毒だとは思わず、食べられるから喜んでいた。
後になって、空腹に耐えられなくなった福吉は「私はこれだけでは食べていけないから民間人のいる収容所に行く」と言った。私は「防衛隊だったとか言って殺されるはずよ」と言ったが、「自分はもうどうなってもいい」と彼は出て行った。
私が病院にいた時、同じ集落の多くの人たちが、自分の兄弟や親戚が無事か、病院に来ていないかと毎日訪れていた。食べるものもないから、彼らは差し入れもなく手ぶらで来ていた。そこでは海から流れてくる藻を海水で洗って食べていたほどだった。食べ物はないしウジは湧くし、痛くて大変だった。だから戦(イクサ)は反対しなければならない。
1番困るのは毎年の健診の時だ。若いレントゲン技師(ぎし)などは「ボタンが着いている服を着ている」と私に言う。私はとぼけて「何も着ていない」と答える。いつも私の背中を見て「あなたは破片を持っていますね」と言われるので「はい、2個持っていますよ。私は戦争の被害者ですよ」と答えている。
(知念昌徳による聞き取り 2008)

■脚注
※1 沖縄戦体験者の語りの中で、空襲による爆撃や艦砲射撃などのアメリカ軍の攻撃全般を「カンポウ」と表現することがある。本書では、話者が「カンポウ」と話しているものの、それが艦砲射撃か空襲かを事務局がはっきり判断できなかった場合に「カンポウ」と表記している。
※2 ひめゆり学徒隊のことだと思われるが、名簿では確認できなかった。