■稲福に日本軍が駐屯
沖縄戦の前、稲福には武(たけ)部隊や石部隊が駐屯(ちゅうとん)し、兵隊たちは各家庭に宿泊していた。当時はアサギグヮー(離れ)もあったので、私の家では母屋(おもや)(6畳間が2つあった)の一番座(イチバンザ)に兵隊が泊まり、家族は離れで暮らしていた。
ウマイー(馬場(ばば))には兵舎なども造られていた。主に訓練用の兵舎だったようだ。そこに、車体を竹で組んでガジュマルの木で覆い、棒を大砲に見立てた戦車の模型を3台ほど作っていた。そこではオジーや大人、青年たちが竹やりの訓練をさせられているのも見た。わら人形を作り、5メートルほど前まで来ると「ヤー」と叫んで突っ込んでいた。
■区長だった父が疎開(そかい)の説得
昭和19年(1944)当時、私の父(安盛)は稲福区の区長をしていた。役場(当時は南風原区にあった)から割り当てがあったようで、親戚だけを行かせるわけにもいかず、父は「各家庭から何人」と希望を取って疎開を勧めていた。1期、2期と疎開させる予定だったようだが、私は1期目の時に行った。なかには「自分を置いていくのか」「孫を1人は置いていきなさい」と言って反対する人たちもいたようである。割り当てだから、「どこそこから何人」とその家庭とも相談して納得させながら進めなければならず難しかったようだが、そうやって疎開人数を調整したようである。
■対馬丸(つしままる)と同じ船団で疎開※1
疎開に出発する時は、上稲福(うえいなふく)(旧集落)から那覇の通堂(とんどう)の桟橋まで3時間ぐらい歩いていった。集落の人たちがハンタグァー(現在の慰霊塔がある場所)から見送ってくれた。私は自分の荷物と2メートルくらいの竹(マータク、ダイサンチク)を持っていた。竹は、父が「もしものことがあったら助かるから」と持たせたものだった。仲程、当間、南風原村(現 南風原町)の喜屋武(きゃん)、本部(もとぶ)を通り、津嘉山(つかざん)で一休みして那覇に向かった。
疎開に出たのは3隻で、私たちは疎開船の真ん中に乗っていた。兵隊がマータクをバンバンと叩いて「船の中で寝るな」と言っていた。みんな、兵隊から渡された浮袋を付けさせられていた。
兵隊が「1番後ろにいた対馬丸がやられた、魚雷がどんどん通過している」と叫んでいて、一晩中眠れなかった。私たちは甲板(かんぱん)の上で朝まで起きていた。「もし命令があった場合は海に飛び込みなさい」と言われていたので、私たちはガタガタ震えていた。
それから4日ほどして鹿児島に着いた。地名もわからなかったが、鹿児島の駅近くの小さな寺に収容された。翌日目が覚めたら、こちらの汽車は豚がわめき散らすように鳴いていてびっくりした(沖縄の軽便(ケービン)鉄道の汽笛はかわいい声だった)。私たちは走って汽車を見に行ったが、機関も車輪もとても大きくて、沖縄の軽便とは相当違っていた。
お寺では、沖縄から疎開者が来るということで地元の婦人たちがごちそうを作って待っていた。私たちはそれを腹いっぱい食べた。
■熊本の疎開先へ
翌日には宮崎県に行く組と熊本県に行く組に分けられた。稲嶺と目取真(めどるま)の人たちは宮崎県に、稲福と平良の人たちは熊本県の八代郡(やつしろぐん)に配置された。
熊本に有佐(ありさ)駅という小さな駅があり、その近くの北野津(きたのづ)の寺に疎開することになった。そこでも地元の人たちによるおもてなしを受けた。婦人会長はじめ婦人会の人たちが料理を準備してくれた。ヤマトの米のご飯はとても美味しく、「おかずはなくても食べられるねー」と話していた。沖縄の米とは全然違っていた。それだけが強く印象に残っている。
稲福からは、私の家族(屋号 上玉城)は兄嫁の富士子と息子の吉密、私と姉の初枝。万徳の家族はカマー(母親)、芳(長女)、ヒデコ(次女)、光雄(長男)、福正(次男)の5人で、仲前大屋の家族はウト(母親)、正信(長男)。新屋の家族は、祖父母のオジー・オバーと千代(母親)の3人だった。平良からは、新垣安紀さんや新垣勇輝さん、イサオさんの兄弟とカツコさんやフミコさん、又吉良明さん、アキラさんの兄弟もいた。中部製糖に長く勤めていたゼンコウさんもいた。
お寺では広間の中で、こちらは稲福の人たち、あちらは平良の人たち、という風に寝る場所がだいたい決まっていた。
■具の少ない粗末な食事
疎開先での生活はとにかく貧しかった。母親たちは農家に頼まれて稲刈りや麦の収穫などの日雇いに出て、その見返りに米や麦などをもらっていた。万徳のお母さんは日雇いに行ってよく米をもらってきていた。子どもたちは親たちが日雇いから帰って来るのをいつも待っていた。
食事は寺の境内(けいだい)の中に疎開者用の小屋を造り、カマドをこしらえて台所にしていた。そこで順番に食事を作っていた。米を少しだけ入れて汁だけが多く、メリケン粉に麦の糠(ぬか)を入れて炊くので、団子などは喉に引っかかって食べづらく、あまり美味しくなかった。具はとても少なくて汁だけが多いので、中身だけすくって汁は捨てていたら、同級生たちが「盛明はナナマカヤー(7杯もおかわりする)だよ」と言っていた。
また、稲を刈り取った後の田んぼで落穂(おちぼ)拾いもした。精米所に持っていくほどの量はないので、一升瓶に入れて棒で突いて精米していた。
寺の後ろには汽車が通っていた。当時は本土でも貧しい人たちがいたようで、夫婦喧嘩でもしたのか、汽車に飛び込んで自殺した事件が、私たちがいた間に3件ほどあった。そうした事件があったと聞くと、私たち子どもは走って見に行っていた。胴体はこちらに、頭はあちらに、と遺体が散らばっているのを調べているのを見ていた。汽車道の土手にはよく野蒜(のびる)が生えていて、球根もあったので私たちはそれをよく取って食べていた。だが自殺した死体が散らばっていた土手なので、地元の人たちは食べなかった。
■リュックを背負ってヤミ商売に
私は初枝と一緒に熊本駅まで汽車で行き、農家からもらった米をリュックサックに詰めてヤミ商売に行った。初枝が「盛明、重くても軽いふりをして歩きなさいよ」と言っていた。ヤミ商売だから捕まるといけないので、親たちは物資を子どもに持たせていた。それでも当時は見逃してくれた。戦争に負けてフィリピンあたりから日本兵が引き揚げて来ていたが、窓から汽車に飛び乗ってくるので怖かった。
■疎開先での日々
寺から2、300メートルほどのところにあった学校にも通っていた。稲福の子どもたちは学校に弁当を持っていくことがなかったが、私は八代から通ってくる女の先生から、弁当箱のふたに弁当を分けてもらったのを覚えている。
同じクラスには、平良から疎開してきたナオコという頭が良い同級生がいた。私はよく本をお腹の前で服に隠して窓から逃げ出していたが、その子は女の子だったからか逃げなかった。
下校時には途中に神社があり、イチョウの木がたくさん生えていた。落ちている銀杏(ぎんなん)の実を家に持ち帰って食べていた。火にくべるとパチンと割れ、皮をむいて焼いて食べた。銀杏は皮をむくといやなにおいがしたが、味は落花生(らっかせい)みたいに美味しかった。
私は小さい時からティーガンマラー(道具いじり)をよくしていた。線路に五寸クギを置き、汽車が通ると飛ぶ方向を確認して、ペシャンコになったクギでナイフなどを作って遊んでいた。
熊本でのアメリカ軍の攻撃は、戦闘機から機銃掃射をする程度だった。台所で食事を作っている時に攻撃を受けたこともあった。
当時は正確な情報がないので、自分の母親たちは生きているのか死んだのかもわからなかった。沖縄は全滅したとの話もあった。
疎開先での楽しみは地元の祭りで、「こんなものもあるんだね」とただ見ているだけだった。生活は毎日ひもじい思いだけで、いつになったら満足に腹いっぱい食べられるかと考えていた。腹いっぱい食べたのは最初のもてなしのおにぎりで、「こんなにお米が美味しいものか」とつくづく感じた。
■泣きながら迎えてくれた母親たち
沖縄へは長崎県の佐世保(させぼ)から引き揚げた。駆逐艦(くちくかん)に乗せられて那覇の通堂(とんどう)に着き、そこからアメリカ軍のGMC(大型トラック)で中城村久場崎(くばさき)の収容所に着いた。当時はシラミが発生していたので、背中から真っ白な粉(DDT)をかけられた。
収容所は全部コンセットで、その形が沖縄のカマボコに似ていることから、私たちは「カマボコヤー」と呼んでいた。収容所では、アメリカ兵に「キャンディー、ギブミー」とお菓子をねだってもらっていた。走っているトラックにすがりついたら電気がビリビリと感電したのを覚えている。トラックを追いかける子どもたちが多く、危ないということで電気を流していた。
久場崎には2日ほどいたと思うが、夜が明けてGMCに乗せられ、各自の居住地に送られた。稲福の人たちは、現在の公民館があるところの十字路に降ろされた。降りる時には各々の子どもの親たちが待っていて、泣きながら手を伸ばして抱き上げていた。
沖縄に引き揚げた時はほとんど焼け野原になっていて、木も山もなく平たくなっていた。それだけは子どもながらに覚えている。
■逃げる途中で行方不明になった父と弟
沖縄に残った私の親たちは、摩文仁(まぶに)(現 糸満市)の東側に岩が割けたところがあり、その間を通って逃げたようだ。しかし捕虜にとられ、父が弟(盛三)をおぶって具志頭(現 八重瀬町)から行列の前を、母は荷物を担いで1番後ろを歩いていたそうだ。父は途中でそこから逃げて、どこで射殺されたかわからない。稲福の人たちは父を大屯(おおとん)ハルヤー(屋取(ヤードゥイ))までは見たと言っていたそうで、その辺りで行方不明になったそうだ。
母はその後大里村大城に行ったそうだ。稲福の人たちも長い間大城にいたようである。
■「集団自決」したおばさんの家族
当時、私の集落の人たちは日本兵から各家庭に手榴弾を渡され、「もしものことがあれば自決しなさい」と言われていたという。
わが家の隣の上門の家族も全滅した。両親と長男の福一、次男のジラーグヮーがいたが、母親は私の母の姉妹である。福一は当時青年だったので兵隊から習い、車座(くるまざ)になってギーザバンタの近くで手榴弾を爆発させ、家族全員が自決したようだ。このようなことは他の家庭でもあったようで、稲福では何世帯かが一家全滅となっている。
■また「いつか来た道」か怖い
当時の国の偉い人たちの判断は大きな誤りである。憲法を変えようとすることで、また戦前に戻らないかと怖くなる。せっかく昭和天皇の時に制定された憲法を壊すのか、また元に戻らないか。今の政治家は戦(イクサ)を経験していないからわからない。
平和の尊さは毎年の慰霊の日に思い出す。慰霊の日には稲福の慰霊の塔に行くが、そこには戦没者の名前が書かれている。どこの家庭には誰がいて、何人いたとか、おかっぱ頭の女の子や一緒に遊んだことなども思い出し、とてもかわいそうで悲しくなる。沖縄に残った同級生は5人ほどいたが、その人たちも亡くなった。
(知念昌徳による聞き取り 2016)
■脚注
※1 同じ稲福から一緒に一般疎開をした玉城正信は、「対馬丸より1日早い船で出発した」と証言している。玉城盛明の証言と食い違いがあるが、事務局では判断することができなかったため、そのまま掲載した。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015701 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 76-81 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-稲福 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |