■農作業の手伝い
戦前、子どもたちは旧稲福集落の西側にあった製糖場で仕事をさせられていた。キビを搾(しぼ)る機械を引く馬を追う作業では、馬も疲れると歩かなくなるので一苦労だった。キビの搾りかすを取り出す作業も子どもたちがしていた。
食べ物は芋が主食だったが、虫が入った芋は、虫に食われた部分を取り除くと食べられるところが少なくなった。
■ヘンサ森での壕掘り
私は、戦争前の昭和19年(1944)には大里第二国民学校(現在の大里南小学校の前身)の5年生だった。戦争前は学校に兵隊が駐屯(ちゅうとん)していた。
学校では授業もそこそこ受けながら、半分はヘンサ森(現在のグリーンタウンの場所にあった山)の日本軍の壕を掘る手伝いをさせられていた。そこは現在のグリーンタウンの北側で、以前地滑りがあったところの下側あたりの壕だった。その一帯は東西に帯状に広がって多くの壕が掘られていた。
作業はニンスクバーキ(竹で編んだ小さなざる)に大人が掘り出した土を入れ、手渡しで運ぶものだった。私は背が低かったので、私より大きい同級生たちはいたずらしてわざと乱暴に投げて渡すので大変だった。私は夏に疎開(そかい)に行ったので、壕掘りはあまり長くはしなかった。
学校での上下関係も今とは違っていた。学校の中で怖いのは1番目が巡査で2番目が先生だったが、あとからは兵隊が1番怖くなった。巡査や先生が道を歩いていたらお辞儀をしていた。なるべく見ないふりをして歩くと、あとで先生に怒られた。
■稲福、平良の人々と熊本に疎開
私は父の実家の屋号仲前大屋に住んでいた。仲前大屋は大所帯(おおじょたい)だった。私は母(ウト)と妹(栄子)、おばさんの娘(ヨシ子)と4人で熊本に疎開した。
疎開は、稲福と平良の人たちと一緒だった。稲福からは2、30人が一緒に行ったと思う。新大前の家族は、母親(ツル)、長男の妻(フジコ)、その娘(千鶴子)、三男(繁信、八代中学に進学した)、四女(フジコ)、五女(ヤスコ)、六女(アイコ)の7人の大所帯だった。長男嫁のフジコさんが引率をしていたが体が弱いため、姑のツルさんが子どもたちの世話などをよくしていた。稲福からは他に、仲ヌ大屋(実・一夫・マリー)、上玉城前(善徳)、万徳(カマ・芳・秀子・光雄・福正)、上玉城(富士子・吉密・初枝・盛明)、新屋が行った。のちに、フィリピンから引き揚げてきた上万徳の子どもたち(タケ・トヨコ・行雄・勝子)も万徳を頼って疎開先に来ていた。
■対馬丸(つしままる)の1日前の船で出航※1
私たちは、疎開船対馬丸より1日早い船で出発した。船は貨物船で3層になっていて、1番下の船倉のところに乗っていた。航行中はアメリカ軍の潜水艦に狙われて魚雷攻撃もあったようで、ジグザグ航行をしていた。そのため昼は避難訓練などもしていた。身の危険を感じながら縄ばしごを使って甲板(かんぱん)まで上がった。私たち子どもは身軽なので何でもなかったが、小さな子どもを抱えた母親や老人たちもいて、逃げようにも逃げられない状況だったと思う。真昼であるうえに裸足なので、甲板の鉄板の熱さは大変だった。
ある夜、「敵に狙われている」と非常招集をかけられ、皆いっせいに甲板に上がって退避するように指示が出されたこともあった。実際に魚雷に当たったことはなかった。
■食料難で成績が次第に落ちた疎開児童
熊本では、八代郡野津村(やつしろぐんのづむら)(現 八代郡氷川町(ひかわまち))の勝専坊という大きなお寺に宿泊した。熊本での生活は大変だった。
最初の頃は学校にも順調に通い、沖縄の子どもたちの成績は優秀だった。その時分にいじめはなかったが、次第に生活が厳しくなり、子どもたちは親の仕事の手伝いをしないと生活していけないようになった。配給(はいきゅう)はあったがいつもお腹を空かせていた。配給は白米ではなく玄米や麦で、ないよりはましだったが、少しでも白米にしようと、大人も子どもも暇を見つけては一升瓶に玄米と麦を入れて精米していた。
地元の子どもたちの弁当は銀飯(ぎんめし)(白米の飯)といっておかずがなくても食べられるほどであったが、疎開児童の弁当は、ほとんど麦に少し玄米を足した「黒飯(くろめし)」だったので、恥ずかしくて食べられないほどだった。そのようなこともあって、学校には次第に行かなくなった。
その代わり、親の手伝いをすると助かるという状況だった。山に薪を取りに行くときには薪の中にタケノコを隠して採ってきたり、みかんや梨が実る時期にはそれを採ったりした。本土の人たちも採っていたようだが、「沖縄の人たちがやっている」という噂が流れ、次第に孤立して疎外される状況になってきた。
学校での思い出はあまりないが、たまに雪が降ることがあって、雪合戦のようなことをやった覚えはある。地元の子どもたちは喜んでやっていたが、沖縄の子どもたちは着ているものも貧弱だったから、雪合戦どころではなく片隅(かたすみ)に立って見ていたことが印象に残っている。
■農家への奉仕で腹いっぱいの銀飯
農繁期には学校から農家の手伝いで稲刈りや田植えなどの奉仕(ほうし)作業をしたが、とても難儀だった。お昼には銀飯が出されたので、沖縄の子どもたちは自分の「黒飯」の弁当は知らんふりをして捨て、銀飯を腹いっぱい食べた。さらに空にした弁当箱に銀飯を詰めて、お土産として家に持ち帰った。
田植えは縄を引いた範囲に4列の割り当てがあったが、沖縄の子どもたちは慣れていないためあまり早くできず、地元の子どもたちに差を付けられていた。あまり役に立たなかったが、大人たちが手伝ってくれた。沖縄の子どもたちは、仕事はあまりできなかったが飯はよく食べていた。
■親たちは農家の日雇いに
親たちも生活が苦しいので農家の日雇いに行き、その手間賃(てまちん)として米や野菜などをもらってきていた。現金よりはその方がましだった。あの時分は都会からも田舎に食料の買い出しに来るくらい、食料は貴重なものだった。私の母はしていなかったが、他の母親たちはもらった米を白米にして銀飯のおにぎりを作り、売りにも行っていた。
あるとき、一人のお母さんがそのようにおにぎりにして売るために夜のうちに炊いていたご飯が、翌朝売りに行こうとしたら羽釜(はがま)ごとなくなっていた。探してみると寺の床下にあった(寺の床下は人が立って歩けるほど高かった)。ご飯を持ち出したのは、平良の私の同級生の弟で、私より2、3歳下の子だった。それほど飢えていて、銀飯はよだれの的だった。
疎開先では空襲はほとんどなかった。ただ、ある時は寺を目がけてグラマンが機銃(きじゅう)を撃ち込んできたことがあった。田舎では寺の方が大きな建物だったので狙われたのかもしれない。私たちは歩いている途中だったので、あわてて川に飛び込んだ。続けて攻撃されることはなく、半分遊びのようだった。
■熊本の人たちに感謝
疎開先には2年ほどいて、帰ってきたのは昭和21年(1946)頃だと思う。私たちは旧稲福の仲前大屋の実家に帰ったが、戦前の家は焼けてしまっていた。沖縄に残っていた実家の家族は茅葺(かやぶき)の家を造って住んでいた。戦争で、旧稲福には1軒の瓦葺(かわらぶき)の家だけが焼け残っていた。
沖縄に残っていたら艦砲射撃でやられていたかもしれないと思う。苦しい2年間だったが、熊本のおかげで命があると感謝している。
■帰ってからも厳しい農作業
沖縄に帰ってきてからは農作業などが相当厳しかった。キビ作りでは当時、現在の稲福の東のてっぺん近くの急傾斜地まで耕していた。馬を使ってキビを運んでいたが、私は体が小さかったので馬に乗せるのも一苦労だった。トラックを使うようになってからも、車に積み込むときはキビの束の根っこ部分を持って車の上にいる人に渡すので、小さな私には大変だった。
豆づくりも一苦労だった。クルマンボウ(大小2本の棒を組み合わせ回転できるように作った道具)の短い棒を持ち、長い棒を振り回して積み上げた豆を叩き脱穀(だっこく)するのだが、小さな人には難儀な作業だった。
(知念昌徳による聞き取り 2016)
■脚注
※1 同じ稲福から一緒に一般疎開をした玉城盛明は、「対馬丸と同じ船団だった」と証言している。玉城正信の証言と食い違いがあるが、事務局では判断することができなかったため、そのまま掲載した。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015700 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 72-75 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-稲福 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |