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新垣文子(昭和6年生まれ 大里・大城)【キーワード】日本軍の駐屯/陣地構築/具志頭村・玉城村へ避難/収容所

■母の代わりに壕づくりの作業へ
わが家では兄の目が不自由で、父は胃腸病で仕事が出来ず、母一人で畑仕事をしていた。そのため母に「学校へ行くな」と言われていた私は、母が作った丈の短い子ども用のもんぺを着せられ、タオル小(グヮー)を頭にかぶせられて壕造りに動員された。
日本軍の鈴木伍長(ごちょう)という人がいて、「お母さんの代わりに来たのか、お母さんの代わりに来たのか」と言って頭を撫で、「がんばりなさいよ」とかわいがってくれた。そこでは、発破をかけて崩したあとの土をニンソクバーキ(土を運ぶざる)で運び出した。
同じ集落の人で、2歳年上の大城トシコさんという女学生と一緒にモッコで土を運び出す作業をしたこともある。彼女は小さい私を思いやり、2人の間のモッコの自分寄りのところにバーキ(ざる)をかけて荷重のバランスをとってくれた。兵隊さんも「ゆっくりやりなさいね」と言ってくれていた。
壕の土を運び出す作業を数ヵ月ほどしたと思う。稲福(いなふく)や玉城村(現 南城市)喜良原(きらばる)でも土出しの作業をした。母の代理で出ていたので、子どもだからといって楽をさせてもらえるわけでもなく、青年団の人たちと同じ作業をしていた。私は母が持たせた弁当につられて行っていた。弁当は芋の上に蒸した飯で、みそがおかずだった。

■おばのけがを豚肉で手当て
実家は日本軍の炊事場になっていた。戦争が始まると、知人で防衛隊になった人たちにふるまうため、実家で飼っていた豚や馬を潰して鍋を作っていた。大城にも陣地があったので、父は日本兵たちにも鍋をふるまった。イチャンダ(ただ)で振る舞うつもりだったが、日本兵たちはそれでは忍びないと思ったのだろう。一杯につきお金を置いて行った。
私はその椀を運んだり、家で鍋の火を燃やしたりしていた。「壕に入りなさい」と言われたこともあったが、家から外に出ると弾に当たるようで怖くて出ることが出来ず、危なくなった時だけ壕に入っていた。
家の下の方には日本軍の2つの大砲があった。2発ほど撃ったのだろうか、その後すぐ周りに集中的に、猛烈なカンポウ※1がとめどなく落ち続けた。
家にはアサギ(離れ)があって、真ん中のアサギは古かったが、その下の方に新しく造ったアサギがあった。その新しいアサギで「食べるより寝たほうがいい」と言って寝ていた。すると、砲を撃った音がしたかと思うと、すぐ艦砲射撃が連発で行われ、一緒に寝ていたおばさんが右の太ももを撃たれた。
それからが大変だった。ウジがたくさん湧いて、「アキサミヨー」と言って泣きじゃくっていた。治療する薬もないので、豚肉に塩をつけたものを傷に当ててボロ布で巻いていた。そこからウジ虫が出てきて生きている肉を食べるので、石油をかけてウジ虫を殺した。
そのおばさんの傷は無事に治り、足は曲がらなかったが戦後も元気に長生きした。

■「マタトー 死ヌルクトゥヤ ネーヤビランクトゥ」
その後、私たちは大城を出て避難した。子どもだったのではっきり覚えていないが、具志頭村(現 八重瀬町)の新城(あらぐすく)グスクの方では殺された日本軍の兵士たちが家の屋根の高さまで積まれていた。グスクの前の道は血がいっぱい流れていて、子どもながらに恐ろしさでいっぱいだった。活動するため夜に外に出ていたが、暗い中をつまずいたので石なのかと思って見ると、人の首だったので驚いた。
玉城村愛地(あいち)の川平というところでは、一軒家のおばあさんが父に、「わったーヒージャー(山羊)殺して子どもたちに食べさせなさい」と言ってくれた。外で山羊をシンメーナービ(大きな鍋)に入れて、時々壕から出ては火加減を見守り、いよいよ食べられるというときに日本軍が来た。「もう敵は西原グヮーに来ているから、早く島尻に下がりなさい。早く避難しなさい」と言われ、私たちはたった一口も食べずに追いやられてしまった。
避難する場所もなく、あるとき父は大きな墓を見つけた。父はティーウサーシテ(手を合わせて)、「イクサユールヤイビークトゥ ウンジュターヤ 死ドーイビーシガ マタトー 死ヌルクトゥ ネーヤビランクトゥ 生きている人を助けてキミソーリ(いくさの世の中ですから、あなた方は亡くなられていますが、もう一度死ぬということはありませんから、生きている人をどうか助けてください)」と言い、墓の中に納められていたフニガーミ(骨甕、骨壺)を全部外に出して、私たち子どもを中に入れてくれた。
墓の主のおばあさんは、「ワッター グヮンス スビチイ ジャチ(うちのご先祖様を放り出して)、今、即刻ここを出て、遺骨を中に入れなさい!」とものすごい剣幕で父に文句を言っていたが、父は「一度亡くなった人が二度死ぬことはないから、ワラバーター(子どもたち)を助けてください」と言ってくれた。私たち子どもはやりとりを聞いていたが、ただ怖くて墓の中に隠れていた。

■前川ガンガラーに避難
お墓から追い出されて途方に暮れていると、父の兄を教えていた先生に出会った(神里幸次郎先生という名前だったと思う)。この先生が父に「何で、新垣さん一人で何しているの」と聞き、父が「子どもたちを連れてどこに行ったらいいのか、見てまわっているのです」と答えると、先生は「子どもたちを連れているなら知念に行きなさい」と言った。
それで知念村(現 南城市)に行こうとしたが、アメリカ軍の軍艦がいっぱい並んでいるし、自分たちのところには届かないが弾がボンボン飛んで来るのでとても怖くて、「このような状況では子どもを連れては危ない」といって、両親はまた壕を探し始めた。
父が玉城村の前川ガンガラーのところに大きなガマが空いているのを見つけ、家族でそこに避難した。そこにはすでに4、5人の兵隊がいて、私たちに「ここは衛生兵の入るところだから出ていけ」と言った。だが父は、「兵隊がこんな所で何をしているのか。兵隊がイクサで戦わないでどうするのか。私たちは子どもが大事だからここにいる。あなた方は、ここに隠れていてはイクサができないでしょう」と激しい剣幕で言い合っていた。おかげで私たちは出て行かずに済んだ。
壕にいた兵隊は憲兵(けんぺい)ということだった。女性も1人いたが、看護婦か何かだったと思う。私たちが避難していた時に足を切られた兵隊が運ばれてきた。その時は大雨で壕の前は川になっていて、その切られた足が川に流されていった。
ガマはたいへん深い壕で川が流れていた。その川で飲むのも出すのも済ませた。少しだけ持っていた米で、おかゆを炊いたり、ウムクジミジ(芋くずでんぷんを溶いた水)を黒砂糖と混ぜて飲んだりしていた。
当時、私の父は昔のウチナージン(沖縄の着物)を風呂敷に包んでたくさん持っていた。兵隊たちが「お願いがあります。この軍服と着物を交換してほしい」と言ってきたので、父は換えてあげていた。兵隊の1人は、けがを装った女性を負ぶった上にその着物をかぶって投降した。

■ナービヌヒング(鍋の煤)をつけて投降
捕虜になるときには、一緒に避難していた人の中にいたアルゼンチン帰りの人が、「言葉が通じるかどうか分からないけれど、殺すか殺さないか、食べ物は食べられるのか、着物は着せてもらえるのかを聞いて、ワーガ イジリヨーシーネー イジリヨー(私が出ておいでと言ったら出てくるんだよ)」と言って先に壕から出て様子をうかがい、大丈夫ということだったので投降した。頭の上に手を組んで、何も持たずに出るように言われた。
壕から出るときは、ナービヌヒング(鍋の煤(すす))を顔に塗りたくり、ずっと下を向いて出て行った。幼い弟は私たちの顔をのぞいては「クックッ」と笑っていたが、「ヤナワラバー、ウトゥルサンシラン ワライクヮイミ(怖さも知らないで笑うのか)」とパチミカサリータンヨー(たたかれていたものでした)。
捕虜になってからは、ガンガラーからワチナグイ(湧稲国(わきなぐに))、トラックで知念村の具志堅(ぐしけん)に移動した。民間人は知念村の具志堅、軍人は玉城村百名(ひゃくな)の収容所に連れて行かれた。ワチナグイに行く間のクシバル(現八重瀬町後原)では、かわいそうに、子ども5人くらいと母親が亡くなって臭いも出始め、母親の遺体はふくれていた。小さい子は、仰向けに倒れたお母さんのおっぱいに口をつけたまま息絶えていた。しばらくは生きていたのだろう。
弾に当たって死んでいる人の群れのそばを通るとき、膨れて倒れている人のあまりの臭さに、ヨモギの葉っぱをもんで、自分の鼻に突っ込んで臭さをがまんした。しっぽの生えたウジ虫が、死体の穴の開いている所からところかまわず出たり入ったりしているのを見て恐ろしかった。だが死人やウジ虫よりも、爆弾や頭の上からヒューヒュー飛んでくる弾のほうが恐ろしかった。

■父と祖母は栄養失調で犠牲に
具志堅では家もなく、馬のタチジャー(馬小屋)の馬の糞のある上にわらを敷いて、カマジーグヮーというむしろを敷いてごろ寝していた。イーチョーティル ニンジュルアタイ イバサヌヨー(立って寝るくらい狭くてね)。具志堅からは、のちに玉城村船越(ふなこし)へ移った。
父とおばあは収容所で亡くなった。栄養失調だった。収容所ではメリケン粉やトウモロコシ粉が配給(はいきゅう)されたが、父は昔から胃腸が弱くてずっとおかゆを食べていたので、メリケン粉やトウモロコシ粉は体が受けつけなかったのだろう。
(知念昌徳と荻野克子による聞き取り 2009 宮城貞子による聞き取り 2009〜2010頃)

■脚注
※1 沖縄戦体験者の語りの中で、空襲による爆撃や艦砲射撃などのアメリカ軍の攻撃全般を「カンポウ」と表現することがある。本書では、話者が「カンポウ」と話しているものの、それが艦砲射撃か空襲かを事務局がはっきり判断できなかった場合に「カンポウ」と表記している。