なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

普天間幸一(昭和5年生まれ 大里・大城)【キーワード】陣地構築/食糧増産/軍国主義教育/南部避難/収容所

■戦時体制下の生活
私は父の信幸(しんこう)、母のウシとの3人家族だった。父は9歳の頃、ウチナーグチでオーブ(骨膜炎)という病気にかかった。そのためお尻の肉を削られ、かわいそうに左足が曲がり、グーサン(杖(つえ))をついて歩いていた。家業は、現在の大城公民館付近でダンパチヤー(散髪屋)をしていた。
集落から出征(しゅっせい)する人がいると、公民館前で武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈って送り出していた。区長さんや出征していく人があいさつをしていたと思うが、詳しいことはよく覚えていない。最後は万歳三唱(ばんざいさんしょう)をしていた。
隣組では、出征した人のいる家庭、つまり男手の欠けた家庭に行って芋を洗ったり、掃除や水汲(く)みをしたりした。学校が終わってからの作業なので、午後5時くらいから1、2時間、一週間に1回程度の勤労奉仕(きんろうほうし)だった。
婦人会はモンペ姿でハチマキをしていたと思う。まるで軍隊のようだった。

■玉砕をほのめかしていた先生
私が大里第二国民学校(現在の大里南小学校の前身)の高等科2年生の時、武(たけ)部隊が集落に来た。武部隊は集落の東側に壕を掘る作業をしていて、私は壕内の柱に使う松の木の皮を剥(は)ぐ作業(マーチヌカーハジャー)をしたり、バーキ(ざる)で土を運び出す作業を手伝ったりした。この作業は学校から動員されたのではなく、字大城の集落としての動員だった。
また、雄樋(ゆうひ)川が現在の大里南小学校あたりを流れていたが、マガヤーヒガヤーして(曲がりくねっていて)いたのを開墾して、芋やかぼちゃを植え付けていた。学校の便所の便を汲み取ってその畑に撒いたこともあった。
学校のことで印象に残っているのは、国民学校で4年間担任として教わった先生が召集(しょうしゅう)され、伍長(ごちょう)となって学校を訪れた時のことだ。その先生は、私たち生徒に「(戦争が激しくなったら)どんなして死ぬか?」と聞いた。「玉砕(ぎょくさい)」という言葉は使わなかったが、暗に玉砕をほのめかしているようだった。私たち生徒は何も言えず、答えなかった。

■おじ・おばと共に南部へ避難
当時、各家庭にはそれぞれ避難壕があった。私の家はウフクボと呼んでいる山に壕を掘った。あの山には壕が10個ほど掘られていたと思う。
戦争が激しくなってきた頃、私の両親はおじ(普天間茂一)とおば(カマ)に私のことを「助けてくれ」と託した。父の体が不自由なので、両親はそのまま大城集落に残ることになった。
私はおじ、おばのことをゥンチュー(叔父)、バーチー(叔母)と呼んでいた。ゥンチュー、バーチーは私を連れ、玉城村(現 南城市)堀川(ほりかわ)のハナンダーガマの下に避難した。私たちは5日間ほどそこにいた。
そこから糸満の米須(こめす)に移動した。屋敷はなかったが石垣に囲まれた牛小屋があり、石垣の角に大きなガジュマルの木がある場所があった。私たちは石垣と牛小屋の間に身を寄せていた。私たちの他には13人の人がいた。
一週間ほど避難していただろうか、6月15日頃の朝方、そこから30メートルほど離れたところに爆弾が落ち、私も石垣に埋もれて頭だけ出した状態で2、3分ほど気を失っていた。おじ、おばも少しの間気を失っていたようだが、私より先に気がついたようだった。おばはその時に右手を負傷した。
同じ集落のお姉さんが爆弾で負傷して、夕方に「幸一、ミジヌマセー、ミジヌマセー(水飲ませて、水飲ませて)」と二度繰り返していたが、水があるはずもなく、翌日には亡くなっていた。
そのころ、近くのクムイ(池)から水を汲んで飲んだがひどい下痢をしてしまった。そこで、おじがウチナーカーミ(沖縄甕)の首の部分にひもをつけてくれ、近くのカー(湧き水)から水を汲んでくるように言った。おばと2人で、昼は危険なので夜に水を汲みに行ったが甕(かめ)が割れていた。おばが「カーミヤ ワリトールムンヤー(甕は割れているじゃないか)」と言い、また別の甕で汲みに行ったことがあった。
米須からは摩文仁(まぶに)(現 糸満市)に向かって歩いた。道すがら、爆弾で吹き飛ばされた女性の頭がガジュマルに引っかかっていたり、2、3歳の子どもがお母さんに負ぶわれたまま、お母さんが死んでしまっているのも知らずにいるところを見たりした。摩文仁にはたくさんの避難民がいた。

■生き延びて通訳をしていた先生
摩文仁から移動し、現在の八重瀬町具志頭のJA(農業協同組合)あたりに井戸があったが、そこでアメリカー(アメリカ軍)のトラックに乗せられた。そこから現在の玉城中学校の前のウージヌミー(キビ畑の中)に鉄条網(てつじょうもう)を張り巡らせたところに連れて行かれ、そこで夜を明かした。
おばはそこで、負傷して始めて治療を受けた。圧迫していた布を外すと、血がピューッと噴水のように吹き出したのを今でも覚えている。
その時、具志頭村(現 八重瀬町)の長毛(ながもう)あたりから糸満の摩文仁に向かって、10門くらいの大砲から10回ほど砲撃がなされていた。
日本の敗戦については、直接ラジオを聞いたわけではなく、アメリカーたちが「ジャパン(は負けた)、バンザイ、バンザイ」と両手を上げて身振り手振りでやっていたので、それとなく知った。周りの大人たちも、日本が負けたことを話す人はいなかった。
その後、うわさで父や母が知念村(現 南城市)にいることを聞いたため、私たちは知念村を目指して歩き続けた。
玉城村百名(ひゃくな)から知念村に向かう途中にワイトゥイ(岩の切り通しの道)があったが、ワイトゥイは道が狭くなっているせいもあり、たくさんの避難民でごったがえしていた。驚いたことに、そこに国民学校で玉砕を求めた伍長の先生がいた。あろうことか、彼は通訳として働いていた。マーカラワジタガ、アヌシンシーグワァーヤ(どんなに腹立たしかったことか、あの先生め!)と思った。
それもこれも教育が悪い。集落の壕から出るなと言われれば、アガトー島尻(あんなに遠い島尻)に避難することはなかっただろうに。生きていることがタダ、フィルマサルアル(本当に不思議なことだ)。

■知念・船越での収容所生活
知念村では、字知念の知念城跡の東あたりにあった10坪ほどの空き家に、親を含めて20人ほどで暮らしていた。
その頃私は、アメリカ軍の作業を手伝いに玉城村前川(現在の玉泉洞のあたり)に行っていた。軍作業に行って、ワンプレートになったお皿(おかずが何種類か入るように区切られたもの)にお昼ご飯を入れてもらって食べた時、見たこともない鶏のもも肉が入っていてびっくりしたことを覚えている。また、アメリカーが缶詰の空き缶を捨てるゴミ捨て場には、空き缶の山の中にいくつもの未開封の缶詰もあった。それを探して食べていたが、中身はポーク缶詰だった。そのため今でもポーク缶詰は好物の一つである。
当時、私は配給所(はいきゅうじょ)の本部のようなところから、知念村の久手堅(くでけん)や志喜屋(しきや)まで何かの文書を徒歩で運ぶこともしていた。お金を父がもらっていたかどうかは知らない。だが歩きすぎて私の足が腫れてしまったため、父に言われて辞めてしまった。
知念から玉城村船越(ふなこし)に移ってからは茅葺(かやぶき)の家をみんなで造った。みんなというのは佐敷村(現 南城市)や南風原村(現 南風原町)、大里の人たちで、総勢3000〜4000人ほどいた。
それはそれは面白い毎日だった。各出身地ごとに芝居を披露していた。例えば佐敷は「伊江島(イージマ)ハンドゥー小(グヮー)」、大里は「護佐丸」や、「大城大軍」という本部大主(モトブウフヌシ)の物語。南風原村は主に舞踊を披露していた。
衣装はアメリカの落下傘(らっかさん)で作っていた。芝居のカツラは私の父が専門だった。フィリピンゥウー(フィリピン麻)を染めたり、ゲンリョウボウシ(パナマ帽)を使って作ったりしていた。その父も戦後、3年ほどで亡くなってしまった。

■山の木や草も一切なくなって真っ白だった
親戚の中からも3、4人が出征して満州(まんしゅう)や南洋へ出て行ったが、幸い無事に戻って来た。ただ一人、私と同姓同名の人は召集されてそのまま帰らなかった。
同級生の中にも、爆弾が直撃して弟と2人で亡くなった人がいる。昭和20年(1945)の5月頃だったと思う。遺骨もバラバラに吹き飛ばされていた。避難していた壕から出て、家に帰る途中のことだった。
戦後、大城に戻って一番驚いたのは、八重瀬岳や大里のゥフユービ(大指)※1が砲撃で木も草も一切なくなり、真っ白になっていたことだ。本当にびっくりした。
戦後は働くので精一杯だった。稲や芋、キビを作る仕事をして、朝4時に起き、暗い中、アメリカ水筒に石油を入れて火を灯して畑作業をしていた。大城には製糖場もあった。
(荻野克子による聞き取り 2008)

■脚注
※1 地名のことだと思われるが、事務局ではこの場所を確認できなかった。