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島袋盛一(昭和4年生まれ 大里・大城)【キーワード】飛行場建設/壕掘り/南部避難/収容所

■少年飛行兵に志願
昭和18年(1943)当時、私は大里第二国民学校(現在の大里南小学校の前身)の高等科2年生だった。昭和19年の3月に国民学校を卒業予定で、20歳になったら兵隊に行かないといけなかったが、それなら早めに経験した方が良いと学校から勧められて少年飛行兵に志願した。
身体検査は戦前の那覇商業(現在の那覇中学校のあたりにあった学校)で2日間かけて行われた。学科試験は二中(にちゅう)(沖縄県立第二中学校。現在の那覇高等学校の前身)で受けた。1時間20分の試験が2種類あり、内容はほとんど軍隊に関することだったと思う。算数も出題されていた。
20人ほど受験し、大里第二国民学校の同級生からは私を含む6人が身体検査を通過した。しかし学科試験で6人全員落ちてしまった。

■飛行場建設や壕掘りへの動員
国民学校を卒業してからは青年学校に通うようになった。大里村の青年学校には、大里第一国民学校(現在の大里北小学校の前身)と大里第二国民学校の卒業生が集まっていた。青年学校では銃剣術(じゅうけんじゅつ)や竹やり訓練などをした。
また、西原村(現 西原町)や小禄(現 那覇市)、与根(よね)(現 豊見城市)、現在アメリカ軍のキャンプキンザーとして使用されているあたり(現 浦添市)の飛行場造りにも行った。小禄に行く時には軽便(ケービン)鉄道の稲嶺駅から那覇まで列車に乗った。浦添に行く時も軽便鉄道を使い、那覇から嘉手納線に乗り継いで移動した。
そのほか、南風原村(現 南風原町)で陸軍病院の壕掘りにも動員された。青年学校の生徒5人に上等兵がつき、スコップで2メートル四方の真四角に掘った。決められた作業量をこなさないと帰してもらえなかった。食事は弁当が出たこともあったが、米はほとんど入っておらず、芋と梅干しが1個のみで、おかずも無かった。芋は供出(きょうしゅつ)で出されて1、2ヵ月経ったものだったと思う。葉が生えてきているものをそのまま炊いた芋もあり、食べられるような状態ではなかった。お汁は芋を水にさらしたものが出されていた。
十・十空襲(1944年10月10日)の時には、私は那覇が空襲を受けているところを大城から見ていた。初めは空襲でなく、演習をしていると思っていた。

■銃弾の羽釜を貫通して被弾する
アメリカ軍の上陸後には、海軍陸戦隊(りくせんたい)の壕や豊見城の海軍壕に食料を取りに行ったこともあった。豊見城へは仲程(なかほど)、津嘉山(つかざん)(現 南風原町)を通れば近かったが、攻撃が激しいため遠回りをして、目取真(めどるま)、湧稲国(わきなぐに)、東風平村(現 八重瀬町)の字東風平と志多伯(したはく)を通って行った。途中、トンボグヮー(アメリカ軍の小型偵察機)が飛んで来るのが見えたらすぐ低いところに伏せながら、一晩中歩いた。
私たちが避難するとき、良い壕のほとんどには日本兵が避難していて入ることができなかった。岩陰など、とにかく破片などを避けられる場所なら良いと思って避難した。
昼間には移動できないため、夜間、具志頭村(現 八重瀬町)の新城(あらぐすく)から糸満方面は、糸満方面へ向かう人と知念方面に行く人とで、道がアリの行列のようになっていた。
私は家を出るときに羽釜(はがま)をかぶって避難していた。逃げている途中で攻撃を受けて頭に破片が入ってしまったが、何もかぶっていなければもっと奥まで破片が入り込んでいたと思う。隣にいたおばあさんは、このときの攻撃で頭を撃たれて即死してしまった。

■マラリアや食料難で苦労した収容所生活
捕虜になってからは百名(ひゃくな)収容所に収容された。収容所では日本兵と民間人に分けられた。捕虜にとられた人々を調べていたのは沖縄の人か日系二世のアメリカ兵だった。
あるとき、日本兵の曹長が着物を着て捕虜になり民間人のふりをしていたが、具志堅宗精(オリオンビールの創業者で、戦前は警察官だった)に兵隊であることがばれてしまった。この曹長は「自分は○○曹長だぞ!」と言って相当怒っていた。二世のアメリカ兵も怒って銃を取り出し、収容所そばに掘られていた穴に入るよう言い、彼を撃とうとした。曹長は「自分で死ぬ」と言っていたが止められ、結局彼はその後、屋嘉(やか)収容所(現 金武町)へ移動したと思う。
私はその後玉城村(現 南城市)の親慶原(おやけばる)へ移動した。しばらくしてから、親慶原の施設はアメリカ軍が利用するということになり、徒歩で佐敷村(現 南城市)へ移動した。
のちに青年はやんばるで仮小屋造りをさせられることになり、与那原から船に乗せられ、大浦(おおうら)崎あたり(現 名護市)で降ろされた。そこから徒歩で二見(ふたみ)(現 名護市)へ行った。
避難中に頭に入った破片は、「自然に出てくるはずだから、危ないから取らないでおこう」と放置していた。しかし、やんばるでマラリアに罹(かか)って熱で苦しんでいた時、「どうせ死ぬから」ということで、診療所の元衛生兵だと思われる人が大した道具もない中で取ってくれた。
やんばるではテントで生活したが、テントにはまた次の避難民が来るので一週間ほどで出された。雨が降ると周囲が水浸しになった。食事も不十分で、食べられそうな草を食べていた。現在の海洋博公園のあるあたり(現本部町)まで芋掘りに行った。

■大城への帰郷
やんばるで8ヵ月ほど過ごして南部へ移動した。やんばるから帰るときには村ごとに出発した。大里村よりも玉城村の方が出発が早かったので、私は玉城の人と一緒に南部に帰った。玉城に行けばすぐに大城に帰れると思っていた。
玉城村の富里(ふさと)で下ろしてもらった時に大城も収容所になっていると聞いたので、当時の区長にお願いして大城に入れてもらった。大城に行くと瓦葺(かわらぶき)の家はほとんど残っておらず、残っていた民家の多くには佐敷村の人たちが入っていた。私たちは自分の家に入ることができなかったので、屋号カミシマブクの家のヒンプン(石垣)にテントを張って生活した。
その後、住民は集落で仮小屋を建てて生活するようになった。材木は中城村の泊や伊舎堂(いしゃどう)から調達してきていた。
(事務局による聞き取り 2015)