■戦争前夜の青年学校時代
私は小学校を6年生で卒業したのちに青年学校へ通った。当時の青年学校には本科1年から3年まであった。
青年学校へは週に2回、午後2時に集合して、竹やり訓練や行軍(こうぐん)などの軍事訓練、タコツボ掘り、便所の汚物の片付け(木で作った汚物入れの樽(たる)を2人で棒で担いだ)などの作業をした。このとき造ったタコツボ(長堂から大城に行くところに掘った)は沖縄戦のときには結局使用されなかった。
青年学校が無い日には、毎月8日に戦死者の墓参りをしたり、出征(しゅっせい)兵士の家で畑仕事などの手伝いをしたりしていた。出征兵士の家の手伝いでは知念まで行ったこともあった。昭和18〜19年頃の戦争が盛んになった頃には、開南中学校の生徒が大城の出征兵士の家まで手伝いに来たこともあった。
昭和19年(1944)からは徴用(ちょうよう)が多くなり、青年学校に通うことはなくなった。
■飛行場建設への徴用(動員隊)
昭和19年の1月5日、大里村内の青年団員(青年学校の先生も付き添いでいた)は丹前(たんぜん)持参で、大里第一国民学校(現在の大里北小学校の前身)の運動場に2時に集合するよう言われた。2時半に学校を出発し、飛行場造りのため、行軍しながらガジャンビラ、高良(現那覇市)を通って小禄村(現 那覇市)の大嶺へ行った。2階建ての宿舎も用意されていたが、茅葺(かやぶき)・丸太造りの、風で吹き飛ばされるような簡単な造りだった。
到着初日は6時後に夕飯を食べ、ゴルフなどのレクリエーションを行ったり、軍歌を歌ったりして10時には就寝した。夜間は不寝番(ふしんばん)(現在でいう門番)を数人組で30分ずつ、日替わりでしていた。朝は5時起床で食事をし、8時から飛行場の滑走路の拡張作業をした。20日まで大嶺で作業を行い、それから大城に戻って、稲入りの準備と家庭用の避難壕掘りをした。
しばらくしてから、西原飛行場での作業に徴用された。我謝(がじゃ)(現 西原町)の広場にショベル、弁当箱、お椀、着替え2着持参で10時に集合し、班長を決めるよう指示された。兵役を満期で終えた上等兵以上の人が班長になるように言われたが、やりたがる人はいなかった。
その後、12時から作業が開始された。宿舎は、我謝集落の人が「大城はこのお家、目取真(めどるま)はこのお家…」と集落別に寝泊まりする家を割り振っていた。我謝では15、16日ほど作業をした。家に戻ってからは親戚の壕掘りの手伝いをした。女性ばかりの家では男手が足りなかった。
その後、また西原飛行場に行かされた。だがアメリカ軍がサイパンに上陸し、兵隊たちが第一線に行くからということで、作業中に解散になった。
これらの軍の作業に従事した人々は「動員隊」と呼ばれていた。60歳くらいのおじいさん達まで動員され、集落ごとに動員先が割り当てられていた。給料は1日2円だったが、当時の物価が高く、物はあまり買えなかった。
大里村内の同級生はみんな動員隊に行っていた。怠けて作業に参加しない者もいたが、ばれたときには朝の点呼の時などにみんなの前に出され、兵隊や青年学校の先生に「なぜ欠席したか」と言われて叩かれていた。当時は「進め一億火の玉だ」、自分の体は火の玉と思って戦え、敵が来ても進みなさい、という教育だった。
■道路づくりと武(たけ)部隊の駐屯
その後も徴用は続いた。夏になると、軽便(ケービン)鉄道に乗って那覇の県庁前に集合した。この頃から、青年学校の先生が一緒に作業をすることはなくなっていた。
伊江島か八重山に行かされないか心配だったが、夕方5時頃、迎えに来た兵隊に連れられて那覇駅から軽便(ケービン)鉄道で嘉手納まで行き、嘉手納駅から読谷の飛行場まで行軍(こうぐん)で移動した。そして読谷村喜名の青年学校の広場で夕飯を食べ、そのままそこで一夜を明かした。翌日から作業が始まり、多幸山(たこうやま)(現 恩納村)の山奥から3、4人で松を担いで運んだ。
作業終了後に食事をして待機していると、日本兵が3、4人来て「動員隊は右に向かって前進しなさい」と言い、そのまま行軍で比謝矼(ひじゃばし)(現 読谷村)を渡って越来(ごえく)村(現 沖縄市)の宇久田(うくだ)国民学校へ移動した。翌朝、オロシキ山※1に登って大きな道を造る作業をした。この道は、荷物や弾薬を積んだ車が通るための道だった。ここでは18日間ほど作業をした。各集落からおよそ30人ずつ動員され、合わせて150人ほどで作業をしていた。
オロシキ山での作業の後、「嘉手納から那覇行きの汽車が6時10分発に出るから急ぎなさい」と言われ、皆あわてて走っていった。だが1里(り)(約3.9キロメートル)ほどあり、私を含む数人は後片付けの当番だったこともあって汽車に間に合わなかった。与原(ようばる)(現 与那原町)の男性が「道が分かるから歩いて行こう」と言ったので、普天間(現 宜野湾市)から西原村(現 西原町)、与那原を通って帰ってきたが、家に着く頃には夜が明けていた。
帰ってくると大城には武(たけ)部隊の機関銃隊が駐屯していた。大里第二国民学校(現在の大里南小学校の前身)が本部だったようで、学校の隣保館(りんぽかん)には武部隊の部隊長(タニハジメ閣下という名だった)がいた。
目取真のある民家は武部隊の慰安所(いあんじょ)になっていた。大里村内で他に慰安所を見たことはない。「慰安婦(いあんふ)」1人あたりで50〜60人の兵隊の相手をさせられていたようで、時間は長くても1人1分くらいだったと聞いた。
■村内や南風原村での陣地構築
次は大里第二国民学校に集められ、並ばされて点呼を取られたのち、ショベルと弁当を持って戦闘指令所へ向かった。みんなで「万朶(ばんだ)の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男子と生まれては 散兵線の花と散れ」※2と軍歌を歌ったり、「ナガサカ兵長以下27名、戦闘指令所へ向かって出発します!」「前進、前進、また前進」と唱えたりしながら山の方へ行き、弾薬壕、炊事壕、馬場(ばば)壕(現在のグリーンタウンの場所にあった)など分担して8つほどの壕を掘った。その後、稲福(いなふく)でも壕掘りをした。
それから宮平(みやひら)(現 南風原町)の役所前に集合し、兵長の下、兵隊20人と動員隊30〜40人で南風原村(現 南風原町)の陸軍病院の壕を掘りに行った。掘る、土を片付ける、担いで運ぶなど、作業を分担して行った。ここではアマノ中尉という人が動員隊を叩くなどの暴力を振るうことがあった。ここでの作業は20日間ほど続いた。
動員されている間は家の畑仕事ができなかったが、日本軍にはカンダバーやツワブキ、豆など、食べられるものは全部供出(きょうしゅつ)するよう求められていた。大城では現在の公民館前の広場に供出物を集め、区長や役場職員、兵隊が確認していた。農業ができずキビも取れないので、西原製糖も稼働しなくなっていた。
■十・十空襲と防衛召集
陸軍病院の壕掘りの作業を20日間ほどした後の10月、次は神里(かみざと)(現 南風原町)へ集まるよう言われていた。大城のティンマブイを登ると、大里第二国民学校の兵隊たちが壕に急いでいくのが見えた。那覇方面ではボーン!ボーン!という音や機関銃の音が聞こえた。下で見ていた人が「おーい!空襲だよ!」と言うので慌てて逃げたが、集落の人たちは演習だと思ってその様子を見ていた。機関銃の音も聞こえたが、誰も弾に当たらなかったようだ。あとには銀紙がたくさん落ちていた※3。
十・十空襲後の11月頃から、大城では18〜44、45歳の人達が防衛隊にとられるようになった。防衛隊員たちの配属先は、港川(現 八重瀬町)の部隊、イグチ隊(大里村西原にいた)、尾崎隊、美田部隊などだった。
■列車爆発
その後、動員隊は神里・山川(現 南風原町)の周辺に集合して野戦重砲陣地の壕掘りをした。その壕は普通の壕の4倍くらいの大きさで、宜野湾から届いたとてもたくさんの松を壕の枠として使用し、弾を撃っても土が落ちないように造った。
14、15日ほど作業をした後、再び南風原の病院壕へ動員された。4、5日後、津嘉山(つかざん)(現 南風原町)にいる部隊から釘を取ってくるように言われて取りに行った。
津嘉山に着くと、「まだ届いていないから待っておきなさい」と言われ、軽便(ケービン)鉄道の津嘉山駅で待っていた。駅には汽車が停まっていた。前方の車両にはおおいをした弾薬が積まれ、その上に兵隊がたくさん乗っていた。そのうしろに屋根のついた客車や衛生品が載せられた車両があった。
汽車が出発してしばらくした後、ボーンと音がした。潜水艦から攻撃を受けたのかとみんな驚いていたが、稲嶺駅付近で汽車が爆発したとのことだった。
爆発により、荷物を積んでいた最後尾の車両が津嘉山駅付近まで流れてきたので、駅にたくさんいた兵隊や私たちは、壕の枠に使用する松の丸太などを投げて車両を止めようとした。積んでいた薬なども燃えていたので消火した。そばを見ると人の肉がついていた。日本兵に「誰にも話さないように」と口止めされることはなかった。
その後、武部隊は台湾に行くということで引き揚げていったが、後からも石部隊や山部隊、暁(あかつき)部隊、海軍陸戦隊(りくせんたい)など、たくさんの部隊が来ていた。兵隊の宿舎の割り当てがあり、大きな家には日本兵がたくさん駐屯していた。大城グスクの下にある壕は軍が使っていた。
昭和20年(1945)3月頃には、大城ダムの反対側の玉城村(現 南城市)喜良原(きらばる)の山で野砲隊陣地(大城に向けていた)の構築に動員された。
■村役場壕への「伝令」
昭和20年3月頃になると空襲も始まり、青年団員のうち私と大城セイエイさん(私より1歳上)の2人以外はみんな防衛隊に召集(しょうしゅう)されていた。残った私たち2人は、集落の在郷軍人班長に「伝令(でんれい)」をするよう言われた。「伝令」の仕事は、西原区にある大里村役場の壕へ行って情報を聞いてくることだった。村長が「日本軍はアメリカ軍が来るのを西原で待っていて、一度攻めてきたが中城まで追い返した。あと一週間で勝つ」と嘘の情報を伝えたこともあった。
村役場の壕で聞いたことは、大城に戻って在郷軍人(ざいごうぐんじん)班長に伝えた。この情報を他の住民に伝えることはなかったと思う。
5月に入ってからは、年配の人たちも含め、防衛隊などに動員されず集落に残っていた人たちが、豊見城の海軍壕へ糧秣(りょうまつ)を取りに行かされたこともあった。兵隊が同行し、糸満経由で取りに行った。
5月10日頃だったと思うが、「伝令」の帰りに西原区から真境名(まじきな)を通るときに20〜30人の日本兵に遭遇し、「君たちはこの辺の人か」と聞かれた。「大里です」と言うと、運玉森(ウンタマムイ)まで道案内をするよう言われた。向かっている途中、大見武(おおみたけ)(現 与那原町)の手前あたりで攻撃を受け、兵隊はみんな逃げてしまった。アメリカ軍は砲をボンボン撃っていた。
私たちもそのまま逃げて宮城(現 南風原町)の壕にたどり着いた。そこには県出身の兵隊が2人いて、「アメリカ軍に攻撃をしても、雨のような攻撃が返ってくるので攻撃ができない。私たちも島尻に行くから、あなた達も早く逃げなさいよ」と言われた。
大城での「伝令」の仕事は5月20日頃まで、計10回ほど行った。「伝令」に行くときはいつも大城セイエイさんと一緒だった。最後に「伝令」に行ったときは、西原区までアメリカ軍が侵攻していたようだった。「伝令」を終えてからは、セイエイさんとは別々に避難した。
■けがを負いながら糸満方面へ
私の家族は、家の近くにある自然の岩を利用した壕に隠れていた。昼は壕に、夜は家にいたが、あとからは湿気や雨のせいで壕の中での生活が厳しくなってきたため家に戻った。大城も艦砲射撃を受けていたが、壕にい続けることはできなかった。兵隊が「5月27日の海軍記念日には日本軍の空中戦もあるから大丈夫。袋のネズミになったアメリカ人をやっつける」と言っていたので、南の方へ逃げようとはまだ思っていなかった。
だが次第にアメリカ軍が近づいてきたので、姉は5歳になる息子(セイキチ)を連れ、「こっちは大変だから」といって他の壕を探しに出た。ところが、1分もたたないうちにセイキチだけが逃げてきた。「おかあが転んでるよー」と言うので見に行くと、姉は攻撃を受けて即死していた。
6月頃には玉城村船越の民家に避難した。ここには知らない人も含め12、13人が避難していて兵隊もいた。しかしあるとき、爆弾が家の角に当たって8人が亡くなった。私も肩と足をけがし、母もけがを負って大量に出血していた。甥のセイキチは屋敷内の小さな壕にいたため無事だった。「2、3時間後にアメリカ兵が来る」と聞いたので、前川へ避難した。
前川ではイリジョー墓へ隠れた。この頃、糸数や船越(ふなこし)あたりにアメリカ軍が侵攻していたため、一晩泊まって与座(よざ)・仲座(なかざ)(現 八重瀬町)へ行った。
さらに南部へ向かうと、摩文仁(まぶに)(現 糸満市)の手前に松林があった。日本軍の小さなテントがあって雨も降っていたが、「ここは日本兵が使うから」と追い出されてしまったので、安里(現 八重瀬町)へ行って一晩過ごした。
そこから真栄平(まえひら)(現 糸満市)へ行ったが、そこでは日本兵が「どこで死んでもいい。どうせ戦争は負けるから」と言っていた。真栄平でも一晩過ごしたのち、新垣(あらかき)(現 糸満市)へ移動した。水が出るカー(井泉)があったので、持っていた芋のデンプンを水に溶いて飲んでいた。日中は飛行機でいっぱいで弾がどんどん落ちてくるので、自分の荷物をかぶってみんなで固まっていた。
そうして一晩過ごしたのち、新垣のムラヤー(公民館)に行った。ムラヤーは焼けていて、近くにあった段差に木などを集めて、そこで7、8日間ほど、10人くらいで腰と腰を合わせて隠れていた。食べ物も何もかも無くなった。
■「殺されても良いから大城に帰ろう」
私は5人のグループで避難していた。現在の沖縄少年院・沖縄女子学園(元ひめゆりパーク)あたりの畑を移動していた時にはアメリカ兵がいて、私の前を歩いていた3人はアメリカ兵にパラパラパラパラーと機関銃で攻撃されて亡くなってしまった。私は甥のセイキチを連れて畑の溝に伏せて隠れた。
そのうち夜明け方(夜中3時頃だったと思う)になり、照明弾(しょうめいだん)があがったときには死んだふりをしながら、少しずつ後ろに戻っていった。10メートルほど移動すると、そばにソテツが生えた岩があったのでそこに隠れた。まだ5歳だったセイキチは泣かなかったが、食事を取っていないのでお腹は膨れ、唾(つば)も渇ききっていた。「あと何時間かしたら死んでしまうかもしれない」と思った。
「もう殺されても良いから大城に帰ろう」と思い、セイキチを負ぶって歩いた。アメリカ兵のそばを通ると「おーいおーい、待て待て」と取り囲まれ、現在の沖縄少年院・沖縄女子学園あたりで捕虜になった。
アメリカ兵はスイカや麦、お菓子などをくれて、とても親切にしてくれた。「あれ?もっと早く捕虜になれば良かった」と思った。
■知念・百名での収容所生活
捕虜になった後は大きい道に出されてジープに乗せられ、民間人は具志頭(現 八重瀬町)の広場に集められた。そこからGMC(アメリカ軍の大型トラック)で玉城村の當山(とうやま)の収容所へ行った。
収容所では食事が与えられ、けが人はここで治療を受けた。當山に着いた翌日、MPに連れられて百名(ひゃくな)に行くと、そこで自由になった。叔父が先に捕虜になって知念村(現 南城市)山里の公民館にいたため、そこで世話になろうとしたが追い返されてしまった。
その後、字(あざ)知念に行くと大城の人に会えた。その人は「あなたたちは島尻まで行ってアワレしたね(大変な思いをしたね)」と言って芋を持ってきたり、寝る場所を紹介してくれたりと世話をしてくれた。知念の収容所では米の配給(はいきゅう)があり、公民館の前では赤十字の医者たちが来て治療もしていた。
一週間ほどしたある日、アメリカ兵が家々をすべてまわり、「男性は道に出るように」と言った。それから作業隊として島尻方面へ行き、亡くなった兵隊やウジ虫に土をかぶせるなどの作業をさせられた。
2、3日そこで待っているとまたアメリカ兵が来て、「男性は百名へ行き、MPから日本兵ではないという証明をもらわないといけない」と言われたので百名へ行き、現在の百名小学校のところに収容された。
14、15歳以上の男性は証明書を持たないと自由に行動できなかった。知念班、志喜屋(しきや)班、百名班など班分けをして、班ごとに日系二世のアメリカ兵やCPによって兵隊、防衛隊、一般民などに分けられ、兵隊は金網(カナアミ)の中へ収容された。
志喜屋班の番のとき、班の中にオカジマ曹長という日本兵がいたが、彼は知念村志喜屋出身の戦死者の名前を借りて「自分は兵隊ではない」と言っていた。しかし志喜屋のことを尋ねる質問をする中で兵隊であることがばれてしまい、二世が「嘘をついたから銃殺しよう」と言った。するとオカジマ曹長は「お願いがあります。ショベルを貸して下さい。このショベルで穴を掘って、自分で銃で死ぬから」と言い、自分で穴を掘ってそこで死のうとした。だが、アメリカ兵が「あんたは馬鹿だね、なんでこんなことをするか。これが日本の大和(やまと)魂か。ダメダメ、生きた方が良い。あと4、5ヵ月したら日本は必ず負けるから。生き残った兵隊は何人いるか。生き残った住民は何人いるか。これを調べたら証明書も渡す。お前は馬鹿なことをするな」と止めた。オカジマ曹長はその後、屋嘉(やか)(現 金武町)の捕虜収容所へ収容された。
■先発隊としてやんばるへ
私は証明書をもらって知念に帰って来たが、7月頃に、石川(現 うるま市)から島尻まではアメリカ軍が使うため避難民を置いておけないということで、先発隊で何十人かやんばるに行かなければならなくなった。ヤーツクヤー(家造り)の先発隊がくじ引きで選ばれ、いとこが当たったが、おだてられて私が行くことになった。
百名からGMCに乗って与那原で降ろされた。与那原の港にアメリカ軍が仮設の浮桟橋を造っており、そこからLST(アメリカ軍の戦車揚陸艦)で出発して辺野古(へのこ)(現 名護市)の先(当時はナガサキの浜と呼んでいた)で降ろされ、GMCで大久保(おおくぼ)(現 宜野座村)へ連れて行かれた。宜野座では、家を造る人、山で木を切る人、死体を片付ける人、縄を作る人などの仕事が割り振られた。「島尻からたくさんの避難民たちが来る前にすべて終わらせなければいけない」と言って作業をしていた。
私は、収容所で亡くなった人の遺体を片付ける作業をした。毎日老人たちが5、6人は亡くなっていた。毛布もないので、遺体は白いテントの下にそのまま置かれていた。遺体にはシラミも出てきていた。4人で担架を持って、遺体の顔が見えないように工夫しながら運び、大久保の海岸近くに掘った穴に埋めた。
■大城への帰郷と集落の復興
8月になると、日本が負けたという情報が入って来た。それで、百名から来た先発隊の人々は百名に帰ることになった。この頃には、百名には新しい家々が造られていた。
しばらく百名で過ごした後、船越に移動できることになった。知念などの収容所にいた人々のうち、先発隊が船越に避難小屋を造りに行った。やんばるから帰って来た避難民たちもみんな、建てられた避難小屋に割り当てられていた。
その後、大里の人達は目取真(めどるま)と大城に入れることになり、大城の人は先に行って家を建てた。この作業には、船越や百名あたりからも人が応援に来てくれた。家造りの材料は中城村泊から調達してきていた。家は「雨に濡れなければいい」ということで茅葺(かやぶき)屋根で、1軒に24人が暮らしていた。
大城に帰ったのは10月頃だったと思う。大城の収容所には金網(かなあみ)は張られておらず、集落の入口に「出てはいけない」と書かれた看板が立てられていた。集落を出る時には団体で、班長やCPの引率がないといけなかった。そうでなければ越境(えっきょう)として捕まえられた。
大城には家や水、枯れ木もあって目取真に行くよりも良いということで、やんばるから引き揚げてきた南風原村(現 南風原町)、与那原、佐敷村(現 南城市)の人々など、5000人あまりが大城へ来ていた。
大城に戻ってからは芋掘り作業をした。掘った芋は、本部で働いていた人たちの食事になっていた。彼らは「この家には何人入りなさい」といった指示を出すなどの仕事をしていた。
復興に向けて、ヌチヌグスージ(命のお祝い)ということで、各集落から芝居などを出して芸能大会を催した。プログラムは25個かそれ以上あった。そのうち約7割は佐敷村津波古(つばこ)の人が披露していた(「伊江島ハンドー小(グヮー)」や「女の天下」、「真玉橋由来記」、「ミーグショーの由来記」など)。大城は組踊(「護佐丸由来記」や「大城大軍」)、喜劇(「ナカミチサンサングヮー」)、棒術や踊りを上演した。大城にはお年寄りや子どもしかいなかったので、真境名(まじきな)に人を借りられないか頼んだ。しかし真境名も人が少なく断られたため、なんとか17、18歳〜60歳あまりの人まで集めて出演した。
大城に収容された人たちは、だいたい昭和21年(1946)5月頃に自分の集落へ帰っていった。先発隊が昼に自分の集落へ家を建てに行き、夜は大城に帰って寝て、家が出来ると集落へ帰った。収容所で住んでいた家を壊し、新しい家を造るための材料として利用したこともあった。
沖縄戦により、私の両親は船越で、三男兄は沢岻(たくし)(現 浦添市)で亡くなった。長兄と次兄は南洋に行っていたが、長兄はカンボジアのプノンペンで戦死し、次兄は無事に沖縄に帰って来た。
■大城の鐘
現在の大城集落センターにある鐘は、昭和10年(1935)に本土の業者に相談して注文してもらい、中国から取り寄せたものである。鐘は、当時では高額な10円という金額だった。前金を3円入れ、その資金を工面するため、青年たちが朝も夜も働いた。
この鐘は昭和19年の十・十空襲の後、武(たけ)部隊(機関銃部隊のタカハタ中隊長、ナカハラ中尉、ニシボリ兵長がいた)が現在のグリーンタウンのところに高めに下げて、招集する際などに軍が使っていた。当時は金属が供出(きょうしゅつ)されていたが、この鐘は軍に使われたため供出されずに済んだ。
戦後、この鐘はアメリカ軍が本国に持って行ったが、のちに大城へ返還された。
(大城佑里乃、宮城咲希、佐久本万愛による聞き取り 2015、事務局による聞き取り 2020)
■脚注
※1 現在の沖縄市北部の御殿敷のことか。御殿敷には多くの日本軍陣地が造られていた。
※2 「歩兵の本領」という曲名の軍歌。
※3 敵のレーダーの探知を妨害するためのチャフか。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015696 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 50-60 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-大城 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |