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新垣敏春(大正8年生まれ 大里・大城)【キーワード】出征兵士/防衛隊

■満州からの帰還後に防衛隊へ
私は20歳で軍に入隊し、現役兵(げんえきへい)として満州(まんしゅう)で3年間の兵役を終えて帰ってきた。
入隊する時の名前は新田敏春であった。兵隊から帰ってきてから新垣家の養子に入り、養親の両親と自分の3人家族になった。
沖縄戦の時には防衛隊に召集(しょうしゅう)され、港川(みなとがわ)(現 八重瀬町)の球(たま)部隊で船舶工兵(せんぱくこうへい)(海上挺進基地(ていしんきち)第二十八大隊)としての仕事を与えられた。大隊長の名前は本間少佐(しょうさ)で、隊長は稲田小尉(しょうい)であった。
防衛隊に入ってすぐの頃は、特攻艇(とっこうてい)を3隻か4隻出した後、団体を組んで玉城村(現南城市)の新原(みーばる)から首里まで弾薬を運ぶ仕事を割り当てられた。弾薬を所定の場所に運んで置く作業を一晩中すると、きつさのあまり、私以外の他の兵隊たちはみんな逃げていなくなる始末だった。私は現役あがりで兵隊としての訓練を厳しく仕込まれていたので、逃げることなく最後まで勤めた。
特攻艇には内地から来た若い兵士たち(大学を出た青年たち)が乗っていた。満州に現役で来ていた兵士達が沖縄戦にも来ていたので、懐かしく思った。顔見知りの人だったが、相手も仕事に一生懸命なので話しかけられなかった。一方、特攻隊で満州に行かされた20歳前後の子どもたちが、また沖縄へも特攻隊として派遣されてきているので気の毒だった。

■タコツボ作戦の恐怖
防衛隊では夜明けとともに起きていたが、明るいときはアメリカ軍がこちらの動きを見張っていたので動けなかった。そのため夜間の活動が主になり、夜に大砲を引っ張る仕事をしていた。工兵隊は橋をかける仕事をしていて、仕事内容を分担して働いた。
ある日、「アメリカ軍の戦車が港川から上陸する」という情報が伝わった。そこで、「新垣は満州からの現役を終え、兵隊としての訓練をしっかり受けてきているからなんでも出来る」と言って、「タコツボ作戦」の命令が下った。タコツボ作戦は、戦車が通る道に人間が入るくらいの穴(タコツボ)を堀り、爆弾を抱いて穴に入り、相手側の戦車が自分の頭上を通る時に爆弾の信管(しんかん)を抜いて、戦車もろとも爆発する作戦のことである。
幸いなことにアメリカ軍の作戦が変わって、そこを戦車が通らず反対方向から上陸したので命拾いをした。もし戦車がそこを通っていたら、私は木端微塵(こっぱみじん)になって生きていなかっただろう。
港川から上陸するだろうと予想してタコツボ作戦を準備していたが、アメリカ軍はこちらの作戦をすべて見通していたのではないかと思う。アメリカ軍側の作戦は、煙幕(えんまく)を張ってこちらに何も見えないようにされていた。私は衛兵(砲の監視)だったが、私が監視している時に煙幕が張られていた。軍艦が沖縄の海を数珠(じゅず)つなぎで取り囲んでいるのではないかと思うほど、アメリカ軍の軍艦が海いっぱい取り囲んでいた。

■沖縄戦の時の破片が今でも痛む
私は防衛隊の任務で、米須(こめす)(現 糸満市)から首里に爆弾を運ぶ途中で爆弾にやられた。だが小さい破片だったので大事には至らなかった。
爆弾を運んで帰る時には夜が明けていた。一日橋のところ(現 那覇市上間)まで来ると、一日橋が壊されていた。これは日本軍が計画的にやったことで、アメリカ軍の戦車が通れないようにするためであった。だが仲間の自分たちも通れず、遠回りをしなければならなかった。
具志頭(現 八重瀬町)の壕から玉城村糸数の壕まで食料を取りに行った時も、爆弾の破片でやられた。
戦争が終わっても、今でも1ヵ所だけ、破片が首の後ろに入っているが取れない。病院に取りにいっても取れず、長いこと痛い思いを引きずっている。戦争中なので、血がジョウジョウ流れても治療なんてできず、海の塩水で洗ってそのままにしておくだけだった。
戦争の時のことは思い出したくなく、話したくもないので何もかも忘れてしまった。思い出したら悲しくなるばかりだ。
(宮城貞子による聞き取り 2008〜2009頃)