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城間正信(昭和8年生まれ 大里・目取真)【キーワード】日本軍の駐屯/軍国主義教育/南部避難/収容所

■将来の夢も希望もなかった学校時代
昭和19年(1944)当時、私は大里第二国民学校(現在の大里南小学校の前身)の初等科3年生だった。家族は父と義理の母(実母は亡くなっていた)、弟の4人家族だった。
生徒たちは教育勅語(ちょくご)を覚えさせられた。登下校時には、天皇陛下の写真が納められていた奉安殿(ほうあんでん)の前でお辞儀をした。放課後に集落に帰ってからは、出征(しゅっせい)軍人の家で芋掘りなどのお手伝いをした。
学校に兵隊が駐屯(ちゅうとん)するようになってから、授業は各集落の大きな製糖場などで行われた。私たち生徒も、兵隊が陣地を造るために掘り起こした土をざるで運ぶなどの作業をしたり、手旗信号を習ったりした。また、集落で空いている土地を耕したり、芋を植えたりする作業もさせられた。植えた芋は駐屯している兵隊に持って行った。軍国主義の時代で、これを「おかしい」と言う大人もいなかったが、そう思っていても言えなかったと思う。
軍国主義教育のもと「戦争で死ぬ」と教わっていたし、勉強もあまりさせてもらえなかったので、将来の夢や生きる希望も無かった。小さな子どもたち(男の子も女の子も)の遊びも、「アメリカ軍の陣地に上陸する作戦」などの戦争ごっこだった。学校でも校長先生が、「仲程(なかほど)集落のてっぺんにはアメリカ軍の陣地があるからあっちの占領をしに行きなさい」と言って全校生徒を訓練することもあった。
高平(たかひら)の高台には重砲が設置された。アメリカ軍は港川(みなとがわ)(現八重瀬町)から上陸すると考えられていたため、重砲は港川方面に向けて設置されていた(だが今のグリーンタウンの上にあった山にさえぎられてしまい、結局は港川まで届かないということであった)。この頃から授業の一環として、この重砲から弾を撃つという想定で避難訓練を行っていた。現在のAコープアトール店(スーパーマーケット)がある場所は、当時は小高い山で木が生い茂っていて、訓練ではそこに避難していた。しかしある時、兵隊がスイッチを押し間違えて実弾を撃ってしまい、この兵隊が陣地で亡くなる事故があった。
陣地構築の休憩中、ある兵隊が別の兵隊に聞かれないように私を山のてっぺんに連れて行き、「君たちは子どもでアメリカ軍に捕まっても殺されないから、捕虜になるように」と言ったこともあった。この兵隊の家族のことは分からないが、恐らくこの人にも子どもがいたのではないかと思う。当時は「天皇陛下万歳」と言って死ぬように教育されていたが、このように優しい兵隊もいた。

■目取真(めどるま)に駐屯した日本軍
集落でも、上等な家や、屋敷内に井戸や池がある家のほとんどに兵隊が宿泊していた。昼間は陣地構築などで汗をかくので、井戸などの水場が必要だった。ムラヤー(公民館)には炊事班長などの役職の兵隊がいて、兵隊たちはムラヤーで食事を取っていた。
目取真のある家は慰安所(いあんじょ)として利用され、大里第二国民学校に駐屯していた兵隊たちが通っていた。薄い板で家の周りを囲んでいたため中は見えなかった。
十・十空襲のときには、目取真の後ろにある高い山から那覇が真っ赤になって煙でいっぱいになっている様子が見えた。日本兵はアメリカ軍の飛行機を見て「日本の飛行機だったよ」と嘘をついていた。

■玉城方面へ避難
沖縄戦が始まって以降、私は弟をおぶって、義理の母と、可愛がっていた小さいアヒルと一緒に玉城村(現 南城市)の愛地(あいち)に避難した。父は防衛隊として召集(しょうしゅう)されていた。義母は栄養失調のため歩くのも大変な思いをしていた。
その後、玉城村船越(ふなこし)にいる親戚の防空壕に呼ばれたので船越に移動した。移動中、アヒルは体の白さが目立っていたのか、飛行機から機銃掃射(きじゅうそうしゃ)で足の後ろを攻撃され、のちに死んでしまった。
船越では自分たちのお墓(門中(もんちゅう)墓で15世帯のお墓だった)へ避難した。だがすでに多くの人が集まっていてお墓には入れず、墓のそばにあった洞窟に私の家族、親戚のおばあさん、青年1人と一緒に隠れた。洞窟の中に置かれていた棺桶(かんおけ)(おじいさんの遺骨)を外に出して避難していた。腐敗臭がすごくて大変だった。
しばらくすると船越にもアメリカ兵が現れ、日本軍の陣地を探すためか、夜に電灯を持って回るようになった。そのため隣の山にある親戚の墓に移動した。その後も4ヵ所くらいのお墓を行ったり来たりした。避難中、日本兵が洞窟に避難している住民たちに向かって「こっちは自分たちが入るから出て行けよ」と言っている声が聞こえたこともあった。
ある時、私たちが洞窟で島らっきょうの皮をむいて食べていると、雨に濡れた1人の兵隊が突然入って来た。彼は死を覚悟していたのか、自分が与那原出身であることと部隊名(球(たま)部隊と言っていたような気がするが記憶が曖昧である)を告げた。名前も告げていたかどうかは憶えていない。戦後、平和祈念資料館の職員が「与那原出身の兵隊が入ってきた洞窟を教えてほしい」ということで訪ねてきたことがあった。戦争から70年以上が経ち、洞窟内部も上から石が落ちてくる状況だったので、重機を使って石をどかしながら遺骨を探そうということになった。だがそこの地主の許可をとる必要があるということで、結局掘り起こさなかった。

■真栄平で白旗をかかげて投降
玉泉洞の横の川は大雨で氾濫(はんらん)した。川の両岸には避難民が大勢いたが、避難民たちは港川の海へと流されて行ってしまった。流されて木の枝にぶら下がった住民もいたそうだ。
玉泉洞の前では親戚たち3人が手榴弾で亡くなった。親戚の城間ミツグ(私より2、3歳年下)の母もそのうちの1人だった。ミツグは小さな妹をおんぶしながら、私たちと共に糸満方面へ向かった。この時、近くにはアメリカ軍の戦車も数台あったので、アメリカ軍は近くまで来ていた。
糸満の真栄平(メーデーラ)では防衛隊から帰って来た父とも合流した。妹をおぶっていたミツグは、親戚のおじさんや私の父に「赤ちゃんが泣いたらすぐ攻撃されるから、遠いところに捨ててきなさい」と言われ、3回も捨てたがあまりにかわいそうで連れ帰ってきていた。3回目に連れ帰った時はお昼前で、真栄平で簡単に造られた防空壕に寝かせていた。しかし夕方には亡くなってしまった。遺骨もほったらかしにしてしまったので収骨できなかった。
ある日、1人の日本兵が日本刀を持ち、学徒隊と思われる女学生3人を連れて真栄平の上の山に斬り込みに行くのを見たが、途中でアメリカ軍がガソリンをまいて火炎放射器(かえんほうしゃき)で攻撃し、山は大火事になった。斬り込みに向かっていた4人はヤギのように焼け焦げて倒れていた。
この日の夕方には、日系二世のアメリカ兵がウチナーグチで「ヘーク ンジタクムネー 弾撃チ込ムヨー(早く出てこないと弾を撃ち込むよ)」という放送をして民間人に投降を呼びかけていた。スピーカーは真栄平の集落まで音が届くように松の枝に取りつけていた。
私はこれを聞いて捕虜になろうと決め、義母にも投降を勧めた。この頃には、彼女は栄養失調で痩せて顎(あご)も外れ、自分でははめきれないぐらい衰弱していた(顎は叩いて元に戻したことが何度もあった)。弟も足をけがしてウジが湧き、もう話すこともできない状態だった。ウジを竹の先で取り除いていたが相当苦労した。
アメリカ軍が打ち上げた照明弾(しょうめいだん)についていた落下傘(らっかさん)を竹の先に付けて白旗のようにしたものを、私が持って出て行った。この時はとても怖かった。出ていくときには、私たちが入っていた壕の隣で亡くなった、私と同じくらいの子どもが履いていた上等な革靴を履いて行った。私はこの壕に来るまでに履物をなくしていたが、地面は全部石ころだったので裸足で歩くことはできず、この人の革靴を履いた。
また、壕にはけがをして歩けない親戚の男性2人を残して出た。アメリカ兵に「君たちが隠れていた壕にまだ人がいるなら連れて来なさい」と担架(たんか)を持たされたが、まだ戦闘が激しくてその壕までたどり着けず、置いてきた2人は壕で亡くなり遺骨も拾えなかった。戦後にその壕があった地域へ行ってみたが、土地改良がなされて山も全部無くなってしまっていた。

■1人で過ごした収容所生活
捕虜になってからは、稲嶺十字路にあった収容所に連れていかれた。そこでは、けがをした人は治療を受けていた。弟も両足に弾の破片が当たってけがをしていたので手当てしてもらった。
それから徒歩で知念村(現 南城市)の具志堅(ぐしけん)へ移動することになった。移動中はアメリカ兵が1人、私たちの方に拳銃を向けてついていた。
弟と義母は栄養失調のため、具志堅に到着してすぐ2人とも亡くなってしまった。2人の遺体は先に捕虜になっていた親戚2、3人に手伝ってもらって、具志堅の前にある小高い山グヮーの麓(ふもと)に埋めた。2人の遺骨は戦後落ち着いてから収集し、自分たちのお墓に入れた。
具志堅では先に捕虜になった人たちがすでに空き家に入っていたため、私は木の下で数日間生活した。父は防衛隊だったので玉城村の百名(ひゃくな)収容所に収容されたが、時々私の様子を見に具志堅に来ていた。
私は具志堅にいる間にマラリアにも感染した。戦時中はアメリカ兵がマラリア菌を撒(ま)いていたと聞いた※1。アメリカ軍からマラリアの薬が支給されていたので、それを飲んで治療した。
青年たちはアメリカ軍のGMC(大型トラック)に乗せられて、知念から糸満方面へ遺骨収集などの軍作業に行っていた。真栄平あたりは爆風で飛ばされた首が木の枝に挟まって揺れているなど、大変な状況だったそうだ。
その後、私は船越に移動した。船越でも1人だったが、人員に余裕があった家に入れてもらって生活した。船越には主のいない畑があったので、そこから野菜や芋をとったり、防空壕の中で食べ物を探したりして生活した。
それから目取真へ移動した。目取真は山も全部焼けて、わが家も戦争でなくなっていた。生きる希望を感じられなかった。
目取真には規格家(キカクヤー)(ホンダテと呼ばれていた)が建てられていった。収容所になっていた目取真には東風平や豊見城、与那原、佐敷、南風原などの島尻の人たちが収容されていて、小学校も開校されていた。
収容所生活では栄養失調などで亡くなる人も多く、遺体は山の麓に埋めていた。村を歩いていても腐敗臭がすることもあった。収容所内は、日系のアメリカ兵が住民のいる場所を巡回して見張っていた。
私は軍国主義教育の影響もあり、日本国旗を折りたたんで、避難中もずっとポケットに入れていた。だが日本国旗を持っていた人は戦争協力者と見なされて捕まっていたので、百名の道路の穴に捨てた。
大里第二国民学校の同級生は60人ほどいたと思うが、疎開(そかい)に行かず沖縄に残った人は、仲の良かった友達も含めほとんどが亡くなった。目取真で開校された学校にも知っている友人はいなかった。宮崎県などの県外疎開に行った同級生は無事に帰って来た。
私の弟と同じ年頃の子ども達はうちの通りに6人いたが、戦争でみんな亡くなってしまった。

■戦後の再建と若い人たちへの思い
戦後、私は大里中学校に1期生として通い始めた。だが仲程の田んぼや畑などに開いた艦砲弾(かんぽうだん)の穴を埋めるための作業をすることがほとんどで、勉強は何もできなかった。地面が泥んこだったため、女子は足場づくりのための石を大城グスクからざるで運んでいた。
父は再婚し、新しい義母と家族3人で生活した。農業をしていた父は、収穫した野菜を那覇の農連市場まで歩いて売りに行っていた。
目取真では旧盆に使う旗頭(ハタガシラ)が戦争で焼けてしまったため、戦後に集落のみんなで共同で作った。
戦前と戦後で大きく変わったのは食べ物だと思う。戦前は正月や旧盆しか米を食べられず、普段は芋だけだった。今は米も普通に食べられるし、他の食べ物も多い。
戦後、私はサイパンから戦後に引き揚げてきた目取真の女性と結婚した。妻もサイパンで悲しい経験をしてきた。子どもや孫に戦争の話はしないが、妻とはよくする。
若い人に伝えたいのは、戦争に行くと生きて帰れないということだ。戦前の親たちは、息子が徴兵されないように、わざと手指を切ってなくしたり、目にけがをさせたりしていた(徴兵忌避(ちょうへいきひ))。私の親戚のおばあさんも息子にそのようなことをさせていた。どんなにみじめだとしても、親たちは家にわが子を置いておきたかった。
世界平和のために、戦争は絶対にしてはいけない。
(大城綾、仲村竜太、廣瀬友佳による聞き取り 2015)

■脚注
※1 そのような事実はなかったと考えられるが、体験者の多くから「アメリカ軍がマラリアを撒いた」という噂を聞いたという話が語られる。