■配給所(はいきゅうじょ)になったわが家
戦前、私の家は糸数商店というお店を営んでいた。戦争が始まってからは物品が統制され、糸数商店が配給所になった。タバコや塩は専売(せんばい)で、反物(たんもの)や靴、鍋類など、あらゆる商品がうちに来ていた。家は瓦屋(カワラヤー)の2階建て、63坪と比較的大きく、兄が東京の大学、姉は東京の洋裁(ようさい)学校に通っていて、貧しい生活はしなかった。私は私立昭和女学校に通っていた。
■列車爆発の被害に遭う
日本軍が沖縄に駐屯し始めて以来、軽便(ケービン)鉄道は兵隊が使用するようになり民間人は乗車できなくなっていたが、学生は特別に許可されていた。
昭和19年(1944)12月11日、私は学校での看護講習(60~80人くらいの学生が受講した)を終え、那覇駅から汽車に乗って古波蔵(こはぐら)駅で降りた。そして古波蔵駅で、友人4、5人と一緒に嘉手納駅から来た汽車の2両目に乗った。列車に乗る前の天気は小雨だった。
屋根のない1両目にはガソリンの入ったドラム缶が20缶ほど積まれていた。私たちが乗っていた2両目には屋根があり、包帯などの衛生品が載せられていた。2両目には民間人も10人ほどいて、兵隊は車両の中にはいなかったが、屋根の上に5、6人ほど乗っていた。3両目以降に兵隊が乗り、爆弾も積まれていた。兵隊も合わせて140~150人くらいが乗車していて、列車は7、8両編成(へんせい)だった。ほかの車両には、あちこちの女学校の学生が20人弱ほど乗っているのが見えた。男子学生も乗っていたと聞いたが、彼らは兵隊と同じような格好をしていたため、私にはわからなかった。
古波蔵駅では、兵隊さん(新兵(しんぺい)で沖縄出身の人だった)が「自分たちは衛生兵(えいせいへい)で約60人いる。今日講習が終わって帰るんだよ」と話していた。彼らの部隊の本部は高嶺村(たかみねそん)(現 糸満市)にあるということだった。
列車は荷物があまりに重いので、自転車ぐらいの速さでとても遅かった。そして、神里(かみざと)(現 南風原町)の近く(稲嶺駅の手前で平坦な場所だったと思うが、記憶が曖昧である)まで来た時に列車が爆発した。当時は燃料が石炭(せきたん)で、列車の煙突から煙と一緒に上がった火の粉がガソリンに引火したようだった。私は2両目から外を見ていたので、火がついた瞬間を見た。2両目の屋根の上に5、6人兵隊がいたがみんな飛び降りた。
私もすぐに飛び降りた。1人の友人は気が動転し、燃えている列車の方に走っていこうとしたので、引っ張って一緒に後ろの方に逃げた。その時には草も全部燃えていた。私の髪の毛は焼け、両手もただれるほど火傷(やけど)をしてしまった。
後ろの方に逃げてからのことはよく覚えていない。軍が張っていた通信用の線に引っ掛かり大きい溝に落ちたら、列車がバーンと爆発していた。後ろを振り返ると列車はなくなっていた。横倒しになった車両が2つあったが、最後の車両は切れて国場駅あたりまで流されていったと、その頃畑にいた人から聞いた。
神里にいた兵隊2人が、溝に落ちていた私ともう1人を担いで丘の上にあった銭又(ぜにまた)の1軒家まで運んでくれた。すでにけがをした兵隊5、6人が横たわり、ワーワーワーワー叫んでいた。ヤギが焼かれた時のように手も足も真っ黒に焼けて顔の皮も焼けただれ、あれは地獄だった。私の手も皮が焼けてたれていた。そこからトラックで南風原村(現 南風原町)の陸軍病院に運ばれた。そこに運ばれた兵隊たちはみんな瀕死(ひんし)状態で「殺してくれー、殺してくれー」と叫んでいた。焼け焦げた1人の人は「寒いよー、寒いよー」と言っていた。「地獄というのはこういうものかな」と思った。
私は一週間ほどで退院した。包帯を巻いて目取真(めどるま)に帰ったが、私の家を借りていた中隊長に頼んだら衛生兵(池山ヨシオという名前だったと思う)を呼んでくれ、1ヵ月ほど2、3日越しに来てくれた。火傷がひどくて薬が効かないため、薬の入った洗面器に患部をつけていたが、それがものすごく痛くて毎日泣いていた。私があまりに騒ぐので、家を貸してくれていた家主のおばさんは困っていたようだった。
一緒に乗っていた同級生1人や車掌(しゃしょう)さんも亡くなった。亡くなった同級生は私のすぐ目の前に乗っていた。初めは一緒に列車の外側に身を乗り出していたが、知らない男性から中に入るように言われて彼女は内側に入った。彼女は足が速かったが、内側にいたために逃げ遅れてしまったと思う。のちに、彼女の服(服に名前を書いていた)が爆発で木の上に引っかかっていたと聞いた。別の学校の女学生たちも、列車の後ろの方を向いて乗っていたため逃げ遅れてしまったかもしれない。私は列車の外側に身を乗り出して前方を見ていて、炎が上がり兵士たちが飛び降りるのが見えたので助かった。
事故の翌日、列車に犠牲になった方々の肉片がいっぱい積まれて行ったと聞いた。バラバラになった肉片や衣服の切れ端があちこちに落ちていたり、引っかかったりしていた。爆発音はとても遠くまで聞こえたらしい。
日本兵は畑やキビ畑に爆弾を隠していたようだが、この事故のあとに移動させていた。
■家が軍隊の事務所に接収される
武(たけ)部隊が台湾に移動した後、私の家は暁(あかつき)部隊の大隊本部として使用された。本部なので事務関係の人がたくさんいて、机をいっぱい並べて仕事をしていた。家賃などの支払いはなく接収(せっしゅう)された。そこにいた兵隊はもともと師範(しはん)学校の先生だった人や早稲田大学の卒業生など、高学歴の人ばかりだった。2階で寝泊まりしていた兵隊もいたが、少佐(しょうさ)や中尉(ちゅうい)は別の家に泊まって本部(私の家)に通っていた。目取真のほかの民家にも2、3人、あるいは5、6人ずつ兵隊が宿泊していた。
その頃(昭和20年の1、2月頃)、私は首里の民家に泊まりながら、首里の赤田(あかた)にあった病院(ちゃんとした病院ではなく、大きな家を借りて病院として利用していたのだと思う)で看護講習を受けていた。講習では手術の見学などをした。
■梯梧学徒隊として野戦病院へ
沖縄戦が始まると、私は梯梧(でいご)学徒隊(昭和女学校の生徒たちで編成された学徒隊)に動員され、ナゲーラ壕(現 南風原町)に開設された野戦病院で勤務することになった。ナゲーラ壕では首里高女(沖縄県立首里高等女学校)の学徒たちも勤務していた。負傷した兵隊がどんどん入ってきて、便や尿、けがの臭いが漂い、ウジ虫もたくさんいてろくな治療もできなかった。負傷兵は常時200~300人ほどいて看護の人手は足りていなかった。
私たちは包帯の交換や、傷口にわいたウジ虫の除去、排泄物の処理などのお手伝いをした。遺体は、艦砲弾(かんぽうだん)が落ちた穴に兵隊が埋めていた。
ある晩、壕の出入り口で1人の兵隊がみんなに取り囲まれながら、「みんなが死んでも自分は生きて帰るんだ」という話をしていた。その近くには、艦砲射撃でできた穴に雨水がたまってできた池があった。私はそこへ足を洗いに行こうとしたが、兵隊の話を聞くため途中で立ち止まった。すると1分もたたないうちにパーッと明るくなって攻撃を受け、みんな一斉に壕に入った。私の隣に立っていた国吉さんという同級生が「手が切れたー手が切れたー」と言い、軍曹(ぐんそう)が抱いてすぐ治療室に連れて行ったが、爆弾の破片が肩から心臓に入ったようで10分ほどで亡くなった。話をしていた兵隊もけがを負って一週間後に亡くなった。爆弾は私が足を洗おうとした池に落ちたようで、私の友だちは水をいっぱいかぶり、それが血だと思って大騒ぎしたが無事だった。
■死んだ人が羨ましかった
首里にも機関銃(きかんじゅう)の音が聞こえ始めた頃、第三十二軍の司令部(しれいぶ)が島尻に移動したという話が入ってきた。ある日、壕にいた軍医が「家族のいる人は帰っても良いよ」と言ったので私含め島尻出身の人たちは壕を出た。私が出発した後のことはよく分からないが、国頭方面から来た人たちは残っていたようだった。歩ける負傷兵は一緒に壕を出たが、それ以外の人には注射を打ったという話を聞いた。
私は夜間に南風原を通って大里へ帰った。兄は兵隊に行っていたため、両親、姉、私の4人で避難し、親戚たちと合流して玉城村(現 南城市)船越(ふなこし)の大きな壕に避難した。
はじめのうちは穏やかだったが、ある日誰かが「糸数にアメリカ兵が上って行くのを見た」と言い、糸数と船越はすぐ近くなので壕の中は大騒ぎになった。その後どのように行動するか、親であっても自分の子どもに命令することはできず、「もう自分の思うとおりにしなさい」という感じだった。壕に残ってそこで捕虜になった人もいるし、壕を出て亡くなった人もたくさんいた。
私たちは「家族みんな一緒に逃げよう」ということになり、イージョウ墓という大きな門中(もんちゅう)墓に避難した。その翌日に墓を出て糸満の真壁(まかべ)に向かって逃げた。
ものすごい攻撃の中を家族と一緒に逃げ回る中、負傷してウジ虫がたくさんついた状態で這(は)いずり回る兵隊を見た。人が通った時に見上げていた彼の目つきが忘れられない。みんな自分のことに精一杯で、誰も助けようとしなかった。この光景を見たとき、ふと「この人の家族は今頃どうしているのだろう。子どもがこんな状態になっているとは分かりもしない。ウジ虫もいっぱいつけて這いずり回っている、それを他人である私が見ているんだね」と思った。このような死に方はしたくないと思っていたが、死体を見ると、どんな死に方でも「あぁ羨ましいな」と思うようになった。
ナゲーラ壕でお手伝いをしていた頃、若い中尉がけがで運ばれてきて一週間くらい意識不明の重体だった。その人が目を覚ましたとき、「軍医のやつ、また俺を生かしやがって」と言った。軍国教育を受けていた私は、彼がなぜこのようなことを言うのか当時理解できなかったが、自分自身も避難したことで初めてこの発言の意味が分かった。
■避難中に遭遇した悲しい経験
避難中、馬小屋のそばの家に避難している家族がいたが、近くに弾が落ちて娘がけがをしたようだった。その父親が避難できる壕を探しに行ったがみんなに断られたため、彼は大きな声で「この辺の人とは嫁(ユミ)トゥイ婿(ムク)ドゥイデシェーナランドー(この辺りの人とは嫁取り婿取りをしてはならないよ)」と言っていた。この日に娘は亡くなった。
真壁では、ある母親がけがをした12歳くらいの息子を置き去りにする場面に居合(いあ)わせた。母親は乳飲み子(ちのみご)を背負い、5、6歳くらいの子どもの手を引いて荷物も持っていた。私が一緒に避難していた親族の中に、耳が悪くて兵隊に召集されなかった20歳くらいの男性がいた。母親はこの人に「うちの財産を全部あげるから、息子をおんぶして逃げてくれないか」と泣いて頼んだが、自分も今死ぬかもしれない状況で誰も引き受けることはできなかった。その母親は、「せめて今無事な子どもだけでも」ということでけがをした息子を置いて避難した。息子は「お母さん、捨てて行くのか?」と言っていた。機関銃が屋根の上からパンパン撃たれていた中、お母さんは本当に仕方がなくやったのだと思う。彼女を責めることはできない。
その日のうちにアメリカ軍が集落に入ってきて幸いその息子も助けられ、母親も無事だった。しかし戦後、母親はその息子に事あるごとに当時の話をされて精神を病み、亡くなってしまった。
■南部をさまよい捕虜に
真壁からはどこを逃げ回ったのかよく分からない。近くに弾が落ちたら場所を移動した。
あるとき岩を見つけ、その下に隠れると1人のけがをした兵隊がいて、「僕は3日間ご飯を食べていない」と言った。うちは商売をしていた関係で缶詰などの食料品をたくさん持って逃げていたので、姉が食べ物を分けてあげた。彼は斥候(せっこう)で普天間(現 宜野湾市)まで行ったようで、「向こうの住民は捕虜になり、前と後ろをアメリカの兵隊に守られてみんなで列になって芋掘りに行っている。アメリカ軍は何もしない。住民は絶対安全だから出て行きなさい」と言った。
彼はそう言ったが、本当かどうなのか分からないし、捕まりたくなかったので国頭まで突破しようということになり、私の家族は翌朝に外に出た。1人が歩きだすと皆がついてきて、50人くらいで北へ向かっていた。途中で休憩のため休んだが、私の家族は「海岸の方から逃げよう」ということで集団から離れて歩きだした。集団から200メートルくらい離れたとき、弾が集団の真ん中に3発ほど落とされて多くの人が亡くなった。ある人は腸が全部出てしまったらしい。
その日の昼に海岸の方に出ると、前方にアメリカ兵が立っていて、逃げようとすると後ろにも立っていた。逃げられず真ん中に座り込むと、アメリカ兵は「大丈夫、大丈夫」と言い、本当に何もしなかった。地名は分からないが、海の近くで捕虜になった。
避難中、私の家族はみんな少しずつけがをしたが幸い無事だった。父は小さな弾を受けて貫通(かんつう)し、母も弾に少し当たって顔が血だらけになり、姉は飛んできた石で足を負傷した。私は両足に弾の熱い破片を受けて傷ができ、放っておいたが幸いそのまま治った。
■収容所と戦後の生活
捕虜になってから玉城村の當山(とうやま)に連れて行かれた。當山には集められた捕虜がたくさんいた。船越出身の人が「船越に帰る、家を見に行く」と言って、アメリカ兵が止めるのも聞かずに行こうとしたところ銃で首を撃たれて貫通し、しばらくしてから亡くなってしまった。アメリカ兵は人を殺すのを何とも思っていないようで、ニコニコ笑って「これ私がやったよ」と人を殺した話をしていた。
當山には一週間もいなかった。その後は知念村(現 南城市)の志喜屋(しきや)に移動することになっていたが、なるべく遠くに行きたくなかった。先に捕虜に取られた人たちが道のそばにたくさんいて人混みになっていたので、その人たちに紛れて玉城村の百名(ひゃくな)に逃げた。
百名では、若い人たちはアメリカ軍の洗濯などのお手伝いをしていた。軍作業にはトラックが送迎に来ていて、アメリカ軍と仲良くなるとチョコレートなどを貰うことができた。私の姉は参加していたが、私は行かなかった。
食べ物はアメリカ軍からチーズなどの配給(はいきゅう)があった。みんなチーズに慣れていないので、温めて溶かして油にし、それで野菜などを炒めた。
百名で1年ほど生活してから、移動ということで他の人達と一緒に船越へ行き、そこの大きな空き家で5年ほど暮らした。人から聞いた話によると、目取真の私の実家は家の中の柱に紐を巻き付けられ、アメリカ軍の戦車2台で引いて壊されたらしく、屋根の瓦が落ちていた。父の出身地だった船越には自分たちの畑や田んぼがあったので、ほとんど不自由はしなかった。
船越にいた時には、親慶原(おやけばる)にあった知念ハイスクールへ通っていた。共学ではあったが教室は男女別だった。教科書は全然ないので、先生が持ってきたプリントを使って勉強した。
卒業後は、玉城村の垣花(かきのはな)にあった軍政府(ぐんせいふ)(MG=Military Government)のサプライというところでタイプライター(今でいう事務のような仕事だった)として働いた。軍政府が1950年に米国民政府(べいこくみんせいふ)(USCAR=United States Civil Administration of the Ryukyu Islands)になってからも働き続け、計15、16年ほど勤めた。軍政府が垣花にあった頃は、道中はアメリカ兵がウロウロしていて船越から通うのは危険だったので、テントで造られた住居(「カンパン」と呼ばれていて垣花にあった)に4、5人で住んでいた。そこでは、船越から働きに出ていたのは私1人だけだった。職場が那覇に移ってからは私も那覇に住んだ。
その後は、那覇のハーバービューというアメリカ軍専用のクラブの事務所で本土復帰まで勤務した。
出征していた兄は、戦時中は部隊で鹿児島の山中にいたそうだが、遠くに飛行機が飛んでいるのを見ただけで悲惨な経験はしなかったようだ。
戦後の沖縄はとても貧しかった。子ども達はアメリカ兵が来たらワーワー集まり、彼らが投げてくれるチューインガムやお菓子を競争して取っていた。
列車爆発事故で負った両手のやけどの痕(あと)は、戦後もずっと残った。若い時にはいつも腕を組んで手を隠し、人前に出ることを避けていた。あの事故によって私の青春時代はなくなった、人生を狂わされたと思う。
■戦争は人間を人間でなくしてしまう
戦争は絶対にしてはいけないと思う。戦争は私たちが考える以上に惨(むご)いものだ。私の知人は嫁いで実家の家族と離れ離れに逃げることになり、島尻の戦場で自分の母親の死体を見つけたが、避難中だったので何もすることができず、そのままにせざるを得なかったと話していた。
また、人間はいざという極限状態になると人間が人間でなくなってしまい、自分の子どもを捨てるなどの行為をしてしまうこともある。戦争は一度でたくさんである。
(我那覇生作、西原里香による聞き取り 2015、事務局による聞き取り 2020)
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015691 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 31-38 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-目取真 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |