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知念豊彦(昭和4年生まれ 大里・稲嶺)【キーワード】日本軍の駐屯/陣地構築/南部避難/収容所

■戦前の稲嶺と小学校時代
私は稲嶺で生まれ、ワラビナーは「カナー」だった。戦前は両親と弟1人、妹3人と一緒に暮らしていた。父は農業をしていた。戦前の稲嶺は豊かな集落で、組合の売店や、女性が織物を行う大きな建物もあった。
男性が出征(しゅっせい)兵士として出発する際の見送りは軽便(ケービン)鉄道の稲嶺駅で行われていた。
私は大里第二国民学校(現在の大里南小学校の前身)を卒業した。正門のすぐ前には奉安殿(ほうあんでん)があり、登校する時は奉安殿の前に行って必ず最敬礼(さいけいれい)をした。

■日本軍の駐屯と青年学校での作業
昭和19年(1944)に日本軍が集落に駐屯(ちゅうとん)するようになってからは、民家のアサギグヮー(離れ)などに2、3人ずつ兵隊が宿泊していた。公民館も軍に使用されていた。また、大里第二国民学校にあった隣保館(りんぽかん)という建物も軍が使うようになった。初めに駐屯した武(たけ)部隊の時には隊長が隣保館に宿泊しており、武部隊が台湾に移動してからは球(たま)部隊が使用していた。慰安所(いあんじょ)は稲嶺には無かったが、目取真(めどるま)にはあった。
集落に来た日本兵はいつも穴掘りをしていた。武部隊が台湾へ行った後、球部隊が来てからは弾薬運びの手伝いをした。重くて持ちきれない人もいた。
私は国民学校の高等科を卒業した後、青年学校の本科(ほんか)1年に通っていた。青年学校には週に何日間か通って壕掘りの作業をした。毎月、15日ほど壕掘りや軍の手伝いに動員させられたため家の農業や手伝いもできなかった。南風原村(現 南風原町)の野戦病院の壕掘りをしたときには5、6人で1つの壕を掘った。壕の外には係である軍属(ぐんぞく)の人が立っていて、どのぐらい掘ったかを巻き尺で測って確認していた。ある日、「もう少しで終わるから」と壕の中で遊んでいたのが軍属の人にばれてしまい、夕飯抜きで夜中まで作業させられたこともあった。壕は1日にだいたい1メートルずつ掘っていた。

■列車爆発
昭和19年12月に神里(かみざと)(現 南風原町)付近で軽便鉄道の列車が爆発した時、私は家にいたが爆発音が聞こえたため、高台に行って様子を見ていた。蒸気機関車なので、積んでいた弾薬に火の粉が飛んで爆発したようだ。爆発現場から10~20メートル離れたところにも弾薬が山積みされていたが、それらにも火が移り爆発していた。神里集落には、爆発でバラバラになった兵士の肉片が飛んできていたようだ。

■沖縄戦のはじまり
昭和20年(1945)3月23日にアメリカ軍の空襲が始まった。この日は学校の終業式をする予定の日だった。アメリカの戦闘機が4機編隊(へんたい)で、与那原付近から那覇方面に向かって飛んでいった。その様子を高台(現在はゲートボール場になっている所)に登って見ていると、そこにいた日本兵が「これは訓練ですよ」と言っていた。子どもながらに疑いながら見ていたが、那覇の方で火や煙があがっているのが見えて爆撃だろうと気づき、壕へ避難した。当時、父は防衛隊に取られ、母と妹3人は宮崎へ疎開(そかい)し、弟は腎臓病のため沖縄に残っていた。4月1日には、稲嶺はアメリカ軍にガソリンをまかれてほとんど燃えてしまった。
その後、区長が各壕を歩いて回り、「元気な人は男女関係なく弾運びをするように」と呼びに来ていた。それから村役場の壕に向かったが、人を集めるように言った兵隊は帰ったようで、その日はすぐに集落へ帰された。
しかし、その翌日には古堅(ふるげん)の上にアメリカ軍が近づいているということで集落を出て、1人で玉城村(現 南城市)の愛地(あいち)にあるお墓へ避難した。幸いそこには親戚がいたため、その後は親戚と一緒に7、8人ぐらいで避難した。中城あたりから来ていた避難民たちもみんなお墓を開けて入っていた。だが翌日だったか、近くにアメリカ軍が来ていたため墓を出て避難した。その時アメリカ軍に見つかったと思うが、民間人であり子どもで半ズボンを履いていたからか、銃で撃たれることはなかった。愛地から前川の墓場、そして糸満の新垣へ移動した。墓の中に避難するときは、棺(ひつぎ)の上にござを敷いて眠っていた。墓の中には10~15人ほどが避難していた。

■「自分たちも死ぬから」と何も考えられなかった
新垣は迫撃砲(はくげきほう)で集落の半分がやられていたようで、そこからは死体もたくさんあって大変だった。攻撃でけがをした人はホーヤーホーヤーして(這(は)って)歩いていてかわいそうだった。私たちは夜中に移動していたため、どこを歩いていたのかわからない。伊原(いはら)(現 糸満市)のひめゆりの塔あたりでは1軒の屋敷に2、30人が倒れているのを見たが、自分たちも死ぬと思っていたので何とも思わなかったし、何も考えられなかった。「死ぬ」ことだけ考えていた。けがをするよりは直撃で死ぬのを一番望んでいた。若い時に「死ぬ」ことだけ考えていて、今まで生きている。
戦後に三和村(みわそん)になった地域(現 糸満市)を避難していたとき、「もう自分の集落に帰ろう」と夜中に歩いていた。途中で学校の旗らしきものを見たのだが、暗闇でどこを歩いているのかもよく分からなかったため、何度も同じ道を歩いていたようだった。避難中に3回くらいこの学校の旗を見た。夜が明けると木の下や岩場に隠れていた。
また、三和村のどこかの集落の瓦葺(かわらぶき)のお宮に避難していた時、「もうここも大変だから」と外に出て集落の途中まで行き、再びお宮に戻ると、迫撃砲を受けて建物が壊れ、木の下にいた3人が迫撃砲の破片でやられてしまっていた。小さな子ども1人は破片が顔面に刺さって即死だった。あと2人はけがをしていたが、彼らをおいて、歩ける人はそこからすぐ逃げた。
避難中、夜間は真っ暗なので明かりは目立つということで、年配の民間人が煙草を吸おうとすると日本兵に止められていた。アメリカ軍の陣地(じんち)の周りには線が張られていて、それに引っ掛かると昼間のように明るくなる仕組みになっていた。
避難中に一番印象に残っているのは、死体に足を取られて転んだことだった。つまずいてしまったことが何度もあった。三和村の戦前の道には山を削って道を造ったワイトゥイ(切り通し)があり、そこは道が小さいので弾がよく来て一番危なかった。

■伊敷で捕虜になる
私は糸満の伊敷(いしき)の自然壕で親戚と一緒に捕虜になった。アメリカ兵に見つかった時は銃を向けられたが、民間人と分かったようで撃たれずに済んだ。それからアメリカ軍のGMC(大型トラック)に乗せられて中城村の新垣へ運ばれた。新垣で2晩泊まって宜野座村の惣慶(そけい)へ連れて行かれ、しばらくはそこで生活した。惣慶では配給(はいきゅう)で生活していたが栄養失調になり、病院も無いので親戚のおじいさん達2人が亡くなった。家は竹葺(たけぶき)で、自分で地面にススキを敷いて寝ていた。
その後、GMCで玉城村の百名(ひゃくな)へ移動させられた。百名には親戚もいた。百名の後は目取真、そして稲嶺へ戻った。
収容所での生活は、食料も貰えなくなってしまうので逃げる人はいなかった。

■家族との再会が忘れられない
戦後、アメリカからの大量の丸太があり、それを使って「ホンダテ」と呼ばれる家を建てた。働ける人を動員して「今日はどこの家を建ててくれ」と順番に建てて行ったが、集落の家々が完成するまでには長らく時間がかかった。私も大工見習として、大里村役場の建設の手伝いをしていた。その時に、集落から家族で県外に疎開していた人たちがGMCに乗って帰ってきて、母や妹たちと再会することができた。家族が一緒になったこのときのことはいつまでも忘れない。
私は当時未成年だったので、大工の手伝いではショベルやスコップで掘り起こす作業をしていた。畑を掘り起こす時にはたまに手榴弾が出てきた。作業中だったが、信管(しんかん)を抜いて投げて遊んだこともあった。

■帰ってこなかった父
37歳で防衛隊として動員された父は真玉橋(まだんばし)(現 豊見城市)あたりでけがをし、稲嶺十字路近くの収容所に誰かが連れてきたようで、そこに父がいるのを見た人がいる。それからけが人や兵隊、防衛隊は軽便鉄道の与那原駅に収容されたらしい。そこからけが人を船に乗せるよう指示していた声を聞いた人がいる。父はそれ以降どうなったのか、どこで死亡したのかはわからない。私が17歳ぐらいの頃に宜野座まで歩いて探しに行ったことがあるが、その時も何も分からなかった。
(石川鈴華、具志堅秀明、林雍華による聞き取り 2015)