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新垣良雄(昭和11年生まれ 大里・稲嶺)【キーワード】日本軍の駐屯/玉城村へ避難/収容所/青空教室

■稲嶺に日本軍が駐屯(ちゅうとん)
昭和19年(1944)10月10日に十・十空襲があった。那覇が攻撃されていた時、アメリカ軍の飛行機はこちらにも飛んできたが、稲嶺には爆弾は落とされなかった。
十・十空襲の後、集落内の老夫婦が住んでいた大きな瓦葺(かわらぶき)の家(屋号 上ノ大家小)に日本軍が駐屯するようになった。それから公民館や、屋号新垣、西前、西表門の家にも日本軍が入ってきた。これらの家も瓦葺だった。西表門の家は砲弾を置く倉庫として使われた。その2軒隣に小さな茅葺(かやぶき)の家(屋号 メーナンジャトグヮー)があり、そこに大砲が置かれていた。
日本軍は夕方になると、サーターヤーモー(現 稲嶺バス停の近く)の上からラッパを吹いて、そこから馬天(ばてん)の方向に向けて大砲を撃ち込んでいた。サーターヤーモーは高いところにあるのでラッパの音がよく聞こえた。サーターヤーモーでは、その時までは馬を使ってキビを搾(しぼ)っており、発動機(はつどうき)は使わなくなっていた。

■稲嶺の大半を焼き払った空襲
戦争が激しくなったのが小満芒種(スーマンボースー)(沖縄の梅雨の時期)の前だったので、その前の2月~3月頃だったと思うが、稲嶺の東と西表門の家の上に、計2発の焼夷弾(しょういだん)が落とされた。
朝の10時頃、天気の良い日で太陽も上がっていたが、アメリカ軍がガソリンをまいて焼夷弾を落とした。昼3時か4時頃までにはほとんどの家が燃えて、瓦葺の家である屋号新垣、西表門、前大前小、西前、西大門が焼け残っていた。

■集落の壕に避難
その時から「もう家にいることはできない」と、私たち家族は壕に避難した。稲嶺には集落の東側に4つの壕があった。1番上は兵隊が掘った壕で、屋号東大屋、前与那嶺、前大前小の壕は1つに繋がっていた。アメリカ兵が攻めてきたら逃げることができるように、兵隊の壕と民間の壕は中で全部1つになっていた。壕の中は人が立って通ることのできる高さで、幅は2人が並んで歩けるほどのものだった。奥行きは7、8メートルほどあった。
昼は出歩けないので、夜に畑へ芋掘りに行った。家が焼かれる前、私の母は畑に行くつもりだったのか門のところに立っていて、私は家の床の間にいたが、道向かいに爆弾が落ちて母は土をかぶり、私のところには破片が飛んできた。幸い母は弾に当たらず、私も無事だった。破片は落ちた直後は紫色をしていて、水をかけたら煙が出た。
艦砲射撃の前にはトンボ(アメリカ軍の小型偵察機の俗称)が飛んできて、その後から艦砲射撃を受けた。ヒューと音がしたら弾は近くには落ちず、音が止まったら近くに落ちた。音で分かったので、音が止まるとどこに落ちるかとても心配だった。壕にいる時も、艦砲射撃の弾が落ちるとコンコンコンと音がした。

■「死ぬときは自分のシマで」
壕では、「死ぬときは自分のシマ(地域・集落)で死んだ方が良い、シマからは出るな」と言われていた。
毎日カンポウ※1が落とされていた。前新屋小の壕にいた時、壕の前は壕から出された土と松の木などが積まれ高く盛り上がっていたが、その近くでヨシコさんが茶碗道具を洗っていたところ、彼女は爆弾が落ちるのが分かったのか、壕に逃げ込んだので皆が布団を被せていた。近くに爆弾が落ち、盛り上がったところは全部吹き飛び、壕の入口も埋まってしまった。

■愛地(あいち)で機銃掃射を受ける
小満芒種の時期だったから、上から水が流れ落ちてきて壕の前に溜まった。私は昼夜水を汲み出したがどんどん溜まっていったのでもうそこにいることはできないと、母と次姉(シゲ)と3人で玉城村(現 南城市)の愛地に行った。目取真(めどるま)から愛地にさしかかるところで山から日本兵が2人降りてきたので、兵隊と一緒だと彼らがアメリカ兵をやっつけてくれると考え、彼らと一緒に歩いた。
愛地に入って、現在8階建てのアパートが建っているところ(愛地バス停の近く)は当時は畑だったが、そこには野菜のフダンソウが植えられていて、花も咲いて人の高さまで伸びていた。その辺りでアメリカ軍の飛行機から機銃掃射を受けた。畑の前には茅が生えていたが、そこにプス、プスと弾が撃ち込まれる音が聞こえた。私は子どもだったからフダンソウの畑の中で土いじりをして遊んでいたが、母はあわてて屋号タマイの家に逃げて、姉は水が流れているところを這(は)って逃げていた。2人の兵隊の姿は見えなくなっており、彼らがいなくなってからは撃たれなかった。アメリカ軍は茅の生えているモー(野原)を攻撃していたが、逃げる場所はなかったので、2人はそこに隠れていたかもしれない。彼らがやられたのかはわからなかった。
私たちはそこから愛地の屋号仲花城(長姉の嫁ぎ先)のおじさん家族がいる壕に逃げ込んだ。あとから玉城村船越の屋号富才小のおじさん達も来た。稲福の前太の家族も一緒だったと思う。その壕も狭くなったので、2、3日いた後、私たちはそこを出て仲花城の後ろの茅葺のアザマグヮーに移った。次姉が台所でお湯を沸かすために立っていた時、アメリカ兵が鉄砲を向けて立っていたが撃つことはしなかった。民間人だから撃たなかったのだと思う。もうここにもいられないと、また壕に入った。

■愛地の壕で捕虜になる
井戸の上に壕があったが、この壕は逃げることができるように通り抜けができていた。真ん中が下がって両方の入口が上がっており、上がっている場所に2日ほどいたが、そこで捕虜になった。
腰に手榴弾を下げたアメリカ兵が鉄砲を持って壕に来た。母と次姉が出てアメリカ兵のそばに立ち、母がスペイン語で「許してください」と言うと、アメリカ兵はわかったのか首を振ってうなずいていた。私たち家族はブラジル帰りだったので、母はスペイン語を話すことができた(私は家族が沖縄に帰ってきてから生まれた)。私が壕から這って出てアメリカ兵のそばまで行くと、アメリカ兵が私の頭をなでた。私はその手を払いのけ、絶対に触らせなかった。長姉(トミ、カミーと呼ばれていた)たち仲花城の家族は、私たち3人が捕虜になって歩いていく時に壕から出て立って見ていた。のちに知念で再会した。

■稲嶺の収容所へ
それから、愛地の公民館を越えたところに止められていたGMC(アメリカ軍の大型トラック)に乗せられた。動くことのないよう、アメリカ兵が両脇を固めて座らせていた。他の避難民たちは、「若い人は連れていかれて、老人は戦車でひき殺される」と心配して話していた。私は子どもで、車に乗ったことがなかったので喜んで乗っていた。
そこから稲嶺十字路の近く(現在はコンビニになっている辺り)に収容された。そこは畑で家はなかったが、避難民はそこに集められ、畑の中に一晩収容された。けがをした人は縛って寝台に寝かせられていた。稲嶺の知念豊吉さんのお父さんもけがをして寝かされ、「水を飲ませてくれ」と言っていたが、飲ませると死んでしまうので飲ませなかった。近くの田んぼには、死んで膨れ上がっている死体も浮いていた。

■志喜屋から百名へ
それから知念村(現 南城市)の志喜屋(しきや)に歩いて行かされた。そこは捕虜になった避難民でいっぱいになっていたので、そこで解散になった。解散してからは、そこでとどまる人や、字(あざ)知念や山里に行く人たちもいた。私たちは玉城村百名(ひゃくな)に向かったが、その途中、岩の上に立ったアメリカ兵がチョコレートを投げてくれた。母が「これはお菓子でチョコラート(スペイン語でチョコレートのこと)だよ」と言って食べたので、私たちも食べた。母は「これに毒は入っていないよ」と言ったが、他の人たちは誰も信用せずチョコレートを食べなかった。

■殺してくれと哀願する老女
それから知念村の山里に行った。自分たちで家を探して住んでいたが、日本兵が沖縄の着物を着て山から下りてきて、食料を求めてきたこともあった。
海に遊びに行ったとき、ユウナ(オオハマボウ)の木の下にけがをしてハエにたかられているおばあさんがいて、「水を飲ませてくれ」と言っていた。子どもたちはよくわからないから水を飲ませていたが、大人たちは飲ませなかった。そのおばあさんは「自分を殺して埋(う)めてくれ」と大人たちに頼んでいた。
浜には膨れ上がったアメリカ兵の死体がたくさん浮いていたが、その後アメリカ軍が片づけたのか、後日そこの浜に行くと死体はなくなっていた。

■字知念の馬小屋で生活
そこから知念に行って、屋号ナカヌヤーという民家に入った。そこの家主は裏座(うらざ)に住み、前の部屋には避難民が住んでいた。戦争のため、家主はいるが勝手に他人の家に住み込んでいる状況だった。
私たちは馬小屋の2階に入っていた薪を外に出してそこに住んだ。その時には仲花城の家族や稲福の前太の家族も一緒に住んでいて、彼らは馬小屋の下にいた。仲花城の家族は私たちよりも先にここに入っていた。当時私は10歳だったので、寝小便をすると下の人たちが「子どもはそこに寝かせるな」と怒っていた。仲花城の元三さんも2階で寝ていて落ちたが、どこもけがしなかった。

■海から漂着する食料を拾う生活
知念にいた時は、浜に行くとアメリカ軍の軍艦から玉ねぎやミカン、肉などが浜一面に流れ着いていた。肉などはコールタールもたくさんついていたが拾ってきて食べた。玉ねぎは食べたこともなく辛いので取ってこなかった。そこではひもじい思いはしなかった。
ある時、姉と一緒に浜に行って肉の塊を拾ったが、色も落ちてぬるぬるし、腐っている感じだった。良い匂いがしたので、後から考えるとハムだったのではと思うが、浜に来ていた避難民のおばさんに「これは腐っているから捨てなさい」と言われて捨てた。その肉はその人が拾っていた。
肉は箱に入って流れ着くものもあった。私たちがいたナカヌヤーの後ろのおじいさんは舟を持っていたので、海からいっぱい拾ってきてみんなに分けていた。
そのほか配給物資(はいきゅうぶっし)もあった。缶詰は蝋(ろう)が張られた箱に入っていて、チーズやジャガイモが入ったコンビーフの缶詰や、お菓子も入っていた。おかゆが入ったものもあったが、病人用ではなかったかと思う。

■アメリカ軍のごみ捨て場漁り
知念の上原というところにアメリカ軍の大きなごみ捨て場があった。そこにはダンプでごみを捨てていたが、蚊帳(かや)や寝台、洋服など何もかも捨てられていたので拾いに行った。洋服は大きくてダブダブしていて、そのままでは着られないので直していた。後から、ごみを拾うのは危ないということで巡査が立つようになった。
また、知念の集落の前には90オンスの缶詰などがたくさん捨てられていた。膨れている缶詰は腐っていたが、つぶれている缶詰は腐っていなかったので、それを拾って食べていた。

■浜辺で青空教室
知念にいる時には戦争は終わっていて、学校はなかったので岩陰に子どもたちを集めて学校が始まっていた。木の枝を折って地面に書いていたが、後からは、地面には書きづらいので浜に出て、珊瑚(さんご)のかけらで砂に書いて勉強した。小学校にあがっても自分たちはカタカナやひらがなも満足に覚えていなかった。そのため当時の同級生たちはあまり勉強ができなかった。頭のいい人は覚えていて勉強できたが、自分たちは学校に行ってもあまりわからないので、面白くないからいつも山学校をしていた。

■稲嶺での生活再建
知念から目取真に移ってからは、現在の信和苑の下側辺りにあった、茅葺の小さな長屋(ながや)の学校に通った。そこにいた時には11歳になっていた。
稲嶺では瓦葺の家だけが残っていた。みんなで山から木を切ってきて、4つの角に木を立てて簡単に茅をのせ、寝ることができるだけの小さな家を建てて住んでいた。
のちに、子どもたちが成長したので屋号波平小(ハンジャグヮー)の屋敷跡に家を造った。波平小の人たちは戦争が終わってからブラジルに渡った。稲嶺では戦後にブラジルへ移民した人や、本土に行った人が多かった。
17、18歳の頃は、畑を開墾(かいこん)したり田んぼを作ったりしてとても難儀した。朝の青年作業で、私たちの3、4歳上の人たちから1歳下の人たちまでは相当苦労したと思う。

■祖先の位牌(いはい)を守ったので加護(かご)されたか
ブラジルから帰ってきた家族である母、兄(秀吉)、長姉、次姉は誰も戦争の犠牲になっていない。兄は満州(まんしゅう)に行っていたが元気で帰ってきた。
戦争の時、家が焼ける前に、祖先の位牌(いはい)を屋号新垣の家の豚小屋に移していた。その豚小屋は戦前からの石造りの、豚小屋と便所が一緒になったもの(フール)で、人間の糞を豚が頭を入れて食べるような造りになっていた。
壕にいた時、母は1日も欠かさず、私に位牌を見てくるように言いつけていた。戦争が終わっても、その位牌は雨に濡れた以外は無事でそのまま残っていた。そのようなことがあったからか、家族は誰もけがしないで無事だった。
島尻(糸満方面)に逃げていたら命はなかっただろう。島尻に逃げるという考えはなかった。船越の富才小のおじさんは兵隊だったが、兵隊はみな手榴弾を持たされていて、「アメリカ兵が来たらこれで死になさい」と、壕の入口に下げていた。私たちは、死ぬときはそこで死んでいいと思い、島尻に逃げなかった。
(知念昌徳による聞き取り 2015)

■脚注
※1 沖縄戦体験者の語りの中で、空襲による爆撃や艦砲射撃などのアメリカ軍の攻撃全般を「カンポウ」と表現することがある。本書では、話者が「カンポウ」と話しているものの、それが艦砲射撃か空襲かを事務局がはっきり判断できなかった場合に「カンポウ」と表記している。