稲嶺から那覇の十・十空襲を目の当たりにする
私は16歳の時に、那覇が十・十空襲で焼かれているのをはっきりと見た。今のゲートボール場があるところ(現 稲嶺農村公園)の上は拝所(はいしょ)になっていて、そこからは那覇港辺りも見えていた。区内の若者たち5人ほどで、製糖場の屋根に馬乗りになってその光景を見た。はじめは日本軍の演習かと思ったが、稲嶺の裕福な家庭から双眼鏡(そうがんきょう)を借りてきて見たら、飛行機には星のマークがついていた。具志頭村(現 八重瀬町)の港川方面から何十機、何百機と思うほどの米軍機が飛んできて、那覇に焼夷弾(しょういだん)や爆弾を落としていた。那覇は赤々と燃えて煙が立ち込めていた。米軍機は、攻撃した後はまた港川方面に帰って行った。私たちは、「これはアメリカ軍である」と急いで家に帰った。
陣地壕(じんちごう)や飛行場造りへの徴用(ちょうよう)
戦争が始まる前は、稲嶺の機関砲壕(きかんほうごう)や平川の大砲陣地壕掘りに駆り出された。また読谷飛行場(現読谷村)や小禄飛行場(現 那覇市)にも1ヵ月ずつ泊まり込みで動員させられた。青年団の人々と共に徴用されたが大変だった。
17歳の人たちと防衛隊(ぼうえいたい)に召集(しょうしゅう)される
その後、昭和20年(1945)3月頃、16歳で防衛隊に召集された。召集令状(れいじょう)は誰が持ってきたかはわからない。令状は赤紙(あかがみ)に書かれていたため、皆はそれを「アカフダー」と呼んでいた。「〇月〇日、〇〇に集まりなさい」というようにして召集があった。
私は本当は2月14日生まれであるが、17歳の人たちと一緒に学校を出たので召集された※1。
村の戸籍簿(こせきぼ)は戦争前に他の書類と一緒に、南風原区にあった大里村役場の壕に保管していた。土の壕であったため壕内が雨で水浸しになり、戸籍簿もめくったら字も見えなくなるほどで使用できなくなった。戦後、戸籍再編の過程で私の生年月日は間違った日付になってしまった。
稲嶺出身の8人のうち3人だけが生き残る
防衛隊では、徴兵検査で残った年配の人や検査前の20歳未満の人も一緒で、親子ほどの年齢差があった。稲嶺からは8人が召集されたが、生き残ったのは私と、新垣昭喜さん(屋号 西表)と同級生の屋我朝正さんの3人しかいなかった。他には、私の親世代の新垣善コウさん(屋号前大前小)、知念稲喜さん(屋号前安次嶺)に、私より5、6歳上の新垣仁助さんや、同級生の新垣幸男さん(屋号東大屋)と与那嶺善吉さん(前与那嶺)も一緒だった。
そのほか大里村からは、稲福の玉城幸助さん、大城の大城三郎さんと他4人、平川の呉屋善一さん、古堅の上原誠光さんと新里セイキさん、どこの字(あざ)かわからないが城間コウスケさんという人も一緒だった。
「戦に勝たないと家に帰さない」という訓示
防衛隊員は具志頭国民学校があった場所に集められた。そこには将校(しょうこう)や兵長(へいちょう)、伍長(ごちょう)などがいて、「君たちは大東亜(だいとうあ)戦争※2に勝たなければ家に帰さないから、その覚悟をしておきなさい」と言われたので、「これは大変なことになった」と思った。
部隊は球(たま)部隊で、私は稲田小隊の所属だった※3。稲田小隊には3分隊まであり、1、2分隊は30、40代の人たちで、私がいた3分隊は16、17歳代であったが、訓練は厳しかった。
防衛隊員にも軍服は支給されていたようだが、新しいものは兵隊が着て、防衛隊員には兵隊の古い軍服を与えられた。知念稲喜さんは背が低かったため、上着だけで膝下(ひざした)まで被(おお)われてしまうありさまだった。
上官の恫喝(どうかつ)で防衛隊員が首を吊る
そこから具志頭村の港川に配属され、長毛(ながもう)の民間の家に駐屯していた。ある日、仲間の防衛隊員が9時の消灯ラッパが鳴っても起きて話し込んでいた時に、気の荒いヨシハラ分隊長が来て「覚えておけよ。明日の朝は半殺しにしてやる」と言った。その夜、気の弱い隊員の1人が蚊帳(かや)の吊り紐(ひも)で柱に首を吊ってしまった。みんなびっくりして飛び起き、4、5人が分隊長を呼びに行き、分隊長がその隊員を柱から降ろしたら息を吹き返して事なきを得た。その後、この隊員がどうなったかはわからない。
「慰安婦(いあんふ)」・慰安所(いあんじょ)
私たちのいた民家の向かいはサカナヤー※4といって、日本兵の兵舎として使われていた。そこには私たちが「朝鮮ピー」と呼んでいた朝鮮人の「慰安婦」がたくさんいた。「慰安婦」は大里村目取真(めどるま)にもいた。
特攻艇(とっこうてい)を海に出す任務
私たちは特攻艇を具志頭の白水川(シランガー)から海に出す役割に充(あ)てられていた。片側に15人ずつ、両側あわせて30人でロープを船底から通して、首まで水に浸かって特攻艇が浮くところまで出していた。背の低い人はぶら下がっているような状態で、高い人はその分余計に負担がかかっていた。特攻艇は夜に出していた。
私たちがいた壕は字具志頭にあって、入口の1つは中村医院の庭先につながり、もう1方の入口は井戸の方に開いていた。私たちはその井戸から水を利用していた。
アメリカ艦船への特攻攻撃
那覇から撃たれたアメリカ軍の大砲は港川を越えて海に落ちていた。港川から撃った大砲も那覇を越えて海に落ちていた。アメリカ軍は相当な数の軍艦で取り巻いていた。その軍艦に向かって、日本軍の2人乗りの特攻艇(1人が前でハンドルを操縦(そうじゅう)し、もう1人が機関銃(きかんじゅう)を操作した)は後ろに爆弾を積み、軍艦に近づくと向きを変えて後ろから体当たりし、自爆して攻撃していた。2、3回は軍艦を沈めていた。
特攻の兵隊は、出撃前は家族の写真を取り出して見たりしていてかわいそうだった。
アメリカ軍が港川に上陸
アメリカ軍が港川の雄樋川(ゆうひがわ)の河口から上流の橋を過ぎたところへ、小さなボートで8人ほどで乗りつけ、付近に上陸して歩き回っていた。その前に私たちは、その少し上流側の、川がヘアピンカーブになった地点にある、玉城村(現 南城市)堀川のハナンダガマに避難していた。アメリカ軍が上陸する様子は手に取るように見えていて、「今、何人降りたよ」「戻って行ったよ」と言いながら見ていた。アメリカ兵は偵察に来ていたようだった。
同級生が地雷で爆死
アメリカ軍の攻撃が激しくなったので、特攻艇を字具志頭の製糖場に隠すため、シランガーから現在の国道331号線沿いにあった具志頭ドライブインレストラン付近に出て、15人で特攻艇を担いで運んだ。若い人たちは担ぐのに苦労していて、字具志頭の東外れのワイトゥイ(切通し)に差し掛かった時に、特攻艇が地面に擦れてしまった。この道には日本軍がアメリカ軍の戦車を破壊するために地雷を埋め込んでいて、地面から10センチメートルほど突き出た信管(しんかん)の周りを小石で囲んであった。運悪くその信管に触れてしまい、地雷が爆発した。
同じ稲嶺区で同級生の新垣幸男さんは内臓が全部飛び出して、お腹に押し込もうとしても戻すことができないほどだった。その時までは幸男さんは生きていて意識もあった。民家の雨戸を外し、4人で担いで富盛(ともり)(現 八重瀬町)にあった陸軍の野戦病院壕に運んだがそこで亡くなった。幸男さんは頑丈な体をしていて、私よりずっと大きかった。屋我朝正さんは尻に破片が入って傷だらけだったが無事だった。
糸数アブチラガマから弾薬運び
アメリカ軍が上陸する前から、玉城村糸数にあるアブチラガマから大砲の弾を首里まで運ぶ作業があった。アブチラガマには大砲の弾や弾薬が積まれていて、壕内はしずくが滴り落ちるのでカバーで覆っていた。アメリカ軍の飛行機は常時飛んでいたので、日が暮れてから大砲の弾をモッコで2人掛かりでかついで、玉城村船越(ふなこし)から津嘉山(つかざん)(現 南風原町)と国場(こくば)(現 那覇市)を通り、兼城十字路(現南風原町)から首里の弁ヶ岳(べんがだけ)へ1日に1回運んでいた。途中、照明弾が上がると担いでいたモッコを放り投げて地面に這(は)って隠れ、明かりが消えると歩き始めるという具合だった。
戦争中は梅雨の時期で、土の道は泥んこ状態で大変だった。稲嶺の東側の道(現在の県道48号線)を通ったが、兵隊も一緒だから家に逃げて帰ることもできなかった。
「捕虜にならないで自決(じけつ)しなさい」という教育
私たちは鉄砲を持たされていなかったので、実際に戦闘に出たことはなかった。手榴弾を1個持たされていたが、これはアメリカ兵に投げつけるものではなく、アメリカ軍の捕虜になる前に自決するためのものだった。アメリカ兵に取り調べられるといろいろなことを自白してしまうというのが理由だった。今考えるとおかしな、大変なことである。
アメリカ軍は宣伝ビラも飛行機からばらまいていた。多分ハワイから来た日系2世のアメリカ兵がいたのだと思うが、日本語で書かれたビラは、「戦争は兵隊とやっています、民間人は両手を挙げて出てきなさい。おいしい食べ物もあります」という内容だった。私たちがそれを拾うと、日本兵が「なぜこれを取るか、これは見ないでいい」と取り上げ、破り捨てていた。「捕虜にならないで自決しなさい」という教育だったためであった。日本軍は、民間人が捕虜になったら「男は首を切られて、女はアメリカ兵に引っ張りまわされておもちゃにされる」と宣伝していた。
具志頭村で捕虜になる
戦(イクサ)が激しくなってから軍隊から逃げ、具志頭村の玻名城(はなしろ)から与座(よざ)、仲座(なかざ)を通って糸満の真栄平(まえひら)まで行って、そこから岩山づたいに弾を避けながら、米須から大渡(おおど)まで避難した。そこから、牛島中将(ちゅうじょう)が自決したところの後ろから海岸に降りて、摩文仁(まぶに)(現 糸満市)の平和祈念公園があるところの海岸沿いを具志頭村まで歩いてきた。現在のサザンリンクスのゴルフ場(現八重瀬町字玻名城)がある辺りの海岸からやんばるに逃げようと、山カズラのツルをつたって上に上がったら、アメリカ兵と遭遇して捕虜になった。
捕虜になった時は、アメリカ兵が私の鼻先にずっとピストルを突き付けていたので、両手を挙げたままだった。アメリカ兵は、私の雑嚢(ざつのう)※5に手榴弾が入っているのを見つけて、雑嚢ごと取り上げてそのまま海に投げ捨てた。
収容所で母と再会
そこから現在の向陽高校のあるところの後ろ側の広場に集められ、さらに前後をアメリカ兵に挟まれて、玉城村の屋嘉部(やかぶ)にある玉城国民学校前の広場に集められた。さらに現在の百名(ひゃくな)小学校があるところ(当時は畑だった)に集められ、百名集落の東側の坂を下る手前まで連れていかれた。そこで日本人の通訳が「ここからは好きなところに行ってよい」と言ったので知念村(現南城市)の具志堅(ぐしけん)に行った。ここで母親と再会した※6。
一週間何も食べておらず、火炎放射器(かえんほうしゃき)で焼かれたサトウキビばかり食べていたが、サトウキビは焼かれていたために発酵していた。畑や野山はほとんど焼かれて緑はなかった。具志堅には1日か2日ほどいて、屋我朝正さんや呉屋善一さん、上原誠光さんも一緒だったが、呉屋さんと上原さんはそこから同じ区民のいるところへと別れていった。
具志堅も狭いということで、今度は知念村の山里に行った。そこには稲嶺のお年寄りたちもいた。ヤギ小屋の糞を積んでいるところに寝ていたが、今考えると大変なことである。
戦果(センカ)を挙げる
山里には1年余りいたと思うが、そこにいた時に、中城湾に停泊していたアメリカ軍の船へ戦果を挙げに行った。現在の南城市つきしろの辺りを通って、親慶原(おやけばる)から新里ビラ(坂)を降りて歩いて行った。
首里の弁ヶ岳そばにもアメリカ軍のごみ捨て場があって、そこにも漁りに行った。そこにはパイナップルや、90オンスの缶詰が箱ごと捨てられている場合があった。アメリカ軍は、箱の中に1つでも膨らんでいる缶があると箱ごと捨てていて贅沢だった。
現在の南城市佐敷の新開(しんかい)辺りにはアメリカ軍の艦船が台風避難で座礁してそのまま放置されていたが、その船にもロープを伝って入り込み、戦果を挙げに行った。戦果のなかにはたばこもたくさんあったので、お腹の前で洋服に隠して、ラッキーやキャメルなどのたばこを毎日1ボールずつ取ってきた。当時は17歳だったがそのたばこを吸っていた。
軍作業で那覇に動員
私と屋我さんは知念村からGMC(アメリカ軍の大型トラック)に乗せられ、軍作業の動員として那覇に連れて行かれ、食料を積み上げる作業をさせられた。那覇の町はほとんどが焼け野原になっていた。若狭には昔は塩田(えんでん)があったが、アメリカ軍はその辺一帯に相当な量の食料を積み上げていた。日本はとても太刀打ちできなかった。
大工として仮小屋造り
知念村の山里から、今度は玉城村船越の収容所に移された。私は当時17歳だったが、母のおじさんが大工の棟梁(とうりょう)をしていた関係で大工仕事ができた。そこでは避難民の仮小屋造りをさせられていた。仮小屋は、山から木を切ってきてススキで屋根を葺き、床は地面を平らにしてその上にニクブク(藁縄(わらなわ)で編んだむしろ)を敷いたもので、雨が降ると雨漏り(あまもり)がするような粗末なものだった。板などの材料はなかった。あの当時を思い出すと大変なことだった。
船越の屋号上門の後方の上の民家に1ヵ月ほどいて、そこから今度は大里村目取真の収容所に行ったが、そこでも仮小屋造りをさせられた。
目取真にはアメリカ軍が駐屯していた。知識のある人が避難民の中から選ばれ、赤い帽子をかぶって巡査をしていた。鉄かぶとに赤いペンキを塗っていたのでどこからでもわかりやすく、皆は「赤帽(アカボウ)」と呼んでいた。その人たちがアメリカ軍に指示されて収容所を管理していたので安全だった。収容所では娯楽もあった。稲嶺の十五夜遊びで踊りを披露していた人たちが目取真でも踊っていた。その時からは平和になっていたので自由だった。
稲嶺での家屋再建と慰霊塔づくり
アメリカ軍に許されて稲嶺に帰ることができたが、集落は焼夷弾を落とされて大きな瓦葺(かわらぶき)の家が2、3軒残っているだけで、茅葺(かやぶき)の家は全部焼かれて残っていなかった。
戦後になってから、稲嶺の家屋の約8割は私が造った。字の慰霊の塔も私が造った。小刀とクギで屋号と名前を彫り、墨を塗った。太平洋戦争は1941年12月8日に勃発し、45年8月15日に終戦になったことも記した。その後現在の大理石造りの慰霊の塔を建立するときに、区長が私のところに承諾を得るために来ていた。私は「永久的な慰霊の塔を造ることだから」と快く受け入れた。
アメリカ軍と日本軍の差
日本軍は玉城村前川のメーガーガンガラーに架かっていた橋を破壊したが、アメリカ軍は戦車にブルドーザーの歯を取りつけ、くぼんでいるところや川に土を埋め込んでどんどん渡っていた。
日本軍がしていたことはアメリカ軍に比べると遊びのようなものだった。食料などはどうにもならないほどの差があった。戦争の後半になると、日本兵は民間人の食料も奪っていた。現在の向陽高校がある後ろの広場では、アメリカ兵たちは肉を焼きながら機関銃を撃ち込んでいた。
日本軍は武器も弾もないのでアメリカ軍のやりたい放題のようだった。どうりで戦は負けるはずだと思った。
今から考えるとアメリカ軍は偉いと思う。私は破片で顔の肉がめくれていたが元に戻してくれた。同級生の屋我さんは尻の傷を百名の病院できれいに治療してもらった。日本軍だったら、けがをしたらもう死んでしまえと見放したかもしれない。屋我さんは鼻にも小さな破片が入っていて、いつも鼻をグスグスしていたが、ぽろっと出てきた破片は白くてきれいなものだった。
(知念昌徳による聞き取り 2016)
脚注
※1 聞き取り調査の時に同席した妻の政子さんによると、光徳さんの母は「お前を早生まれで産むものではなかった、7月頃に産んでいたら防衛隊に取られなかったのに」と嘆いていたそうだ。
※2 「大東亜戦争」は太平洋戦争を指す、当時の日本における呼称。
※3 稲田という小隊長で配属先が港川、また特攻艇に関する作業をしていたことから、配属先は海上挺進第二十八戦隊の第二十八勤務隊であった可能性がある(『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会編〔南城市教育委員会 二〇二〇〕438~440頁および『昭和二十二、三、二五 第三十二軍船舶部隊史実資料(二) 第三十二軍残務整理部』〔防衛研究所所蔵〈アジア歴史資料センター C11110211900〉〕の「沖縄作戦ニ於ケル海上挺進基地第二十八大隊史実資料」)。
※4 慰安所(いあんじょ)とは、会食も可能で料亭のような機能を持ち、また売買春も行われていた場所。
※5 雑嚢(ざつのう)=肩からかける布製の鞄。
※6 妻の政子さんによると、光徳の母は捕虜になった光徳を見て、「顔に止まっているハエも追い払うことができない、1歳になる前の赤子みたいだった」と話していたという。
| ダウンロード | https://bit.ly/nanjo_sensousyogenhen |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015688 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦 証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 12-19 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | ー |