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大里村史移民編編集事務局ニュース 移民史証言シリーズ(42) 南洋群島と沖縄県人移住者

二、南洋群島への移住
南洋群島統治とともに、日本からの移住者が年々増大した。製糖業や漁業や鉱山などの産業開発のために送りこまれたのである。南洋群島への移住を人々は「南洋移民」・「南洋出稼ぎ」といった。九二〇年、南洋群島の全人口は五万二〇〇〇人であったが、一九四一年には一三万五〇〇〇人となり、このうち日本人は三六〇〇人から八万四〇〇〇人余と二三倍の激増を示し、全人口の六二%にのぼった。特にサイパン、パラオの管内では、日本人が九三%と圧倒的多数を占めていた。日本からの移住者のなかでは、沖縄県人が最も多く、奄美大島や小笠原からの移住者がこれについだ。沖縄県では、戦後恐慌から慢性的不況の続く「ソテツ地獄」と呼ばれる経済不況のもとで官民をあげて南洋移住が唱導されていた。沖縄県から南洋群島への移住は、第一次世界大戦中の一九一五年から始まったといわれているが、本格的に南洋移住が展開するのは一九二二年以降である。昭和期に入って、南洋移住は年ごとに増大し、一九三七年には一万五〇〇〇人を数え、在留邦人の五七%を占めた。大平洋戦争中の一九四二年には、日本本土と南洋群島を結ぶ航路も整備されていった。内地、群島間航路としては、当初海軍御用船(日本郵船)の運航によって連絡をとっていたが、南洋庁設置とともに一九二二年度から日本郵船(株)に補助航路として命令してきた。一九三八年度からは南洋海運(株)の日本、ジャワ航路をパラオに寄港させ、九三九年度からは南洋汽船(株)の海星丸を群島、内地那覇間に就航させた。一九四一年度における主な航路は次の通りである。
①西廻線(年三七回)
神戸、大阪、門司、崎戸、横浜、八丈、二見、那覇、サイパン、テニアン、ロタ、ヤップ、パラオ、アンガウル、メナード、ダバオ、タワオ間往復(日数三五日)
②東廻線(年二〇回)
神戸、大阪、門司、崎戸横浜、サイパン、テニアン、トラック、ポナペ、クサイ、ヤルート(日数五四日)
③サイパン線(年一三回)
神戸、大阪、門司、崎戸横浜、那覇、八丈、二見、サイパン、テニアン、ロタ、名古屋、大阪間往復(日数三〇日)
④日本、南洋、ジャワ線(年往復一二回)
⑤南洋、内地、那覇線(年八回)ハラオ、ヤップ、フハエス阪神、那覇

南洋群島内の航路は、主として南貿汽船が補助金を受けて運航してきたが、航路は網の目のようにし四通八達していた。主なものとしては、マリアナ群島線、ヤップ離島線ハラオ離島線、ポナペ離島線、マーシャル離島線などであっなお、これらの離島線だけでなく、貨物船を利用することも多く、船は一般に貨客船であった。沖縄からの渡航者は、二〇t未満の漁船で直行することもあった。南洋群島への移住者の誘致にあたって、もっとも力のあったのは、無数の関連会社をかかえる国策会社の南洋興発(株)や南興水産(株)であった。南洋興発(株)は一九二一年、東洋拓殖(株)を母体に、資本金三〇〇万円で創立され、一九二三年にはサイパン島で製糖を開始、一九一七年にはアルコール製造も始め、さらに一九三〇年にはテニアン島で製糖を始め資本金七〇〇万円に増資した。南洋興発(株)はその後、燐鉱、コプラ、澱粉、水産、運輸、金融など各種の事業を営み資本金も一九三三年には二〇○〇万円、一九三七年には四○○〇万円と増資し、南洋群島における産業の中枢的存在となった。職員四六〇〇人余、子会社二一、関連会社は無数といわれるほどであった。南洋興発(株)は、沖縄県民の熱帯への順応性と低賃金に着目して、積極的に誘致したのである。沖縄県から南洋群島への移住者は、農業と漁業が圧倒的に多かった。農業では、南洋興発(株)の製糖関係の農場で働く者が多く、沖縄県全域から移住している。漁業では、糸満、本部、慶良間諸島、伊良部島などからの出漁がめだっているマリアナ群島のサイパン、テニアン、ロタなどの島々では農業が多く、カロリン群島のパラオ諸島、トラック諸島、ポナペ島では漁業が中心で、これらの仕事と関連して小型船による運送業も行われた。人々は恋し古里の親兄弟とわかれ憧れの南洋渡てちゃしが」と、「南洋小唄に故郷への思いを託した。
大里村移民史編集委員
安仁屋政昭

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大分類 テキスト
資料コード 008463
内容コード G000001097-0005
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第265号
ページ 5
年代区分 2000年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 2002/09/01
公開日