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大里村史移民編編集事務局ニュース -移民史証言シリーズ(37)- 高原の首都ブラジリア

(沖縄県人会ブラジリア支部長)
新垣・ミルトン・正秀
カンポグランデ州生
ブラジリア在住
一〇〇一年(平成十一)十一月調査

新しい首都へ
私は、一九四五年二月にブラジルのカンポ・グランデで、七人きょうだい(一男五女)の末っ子として牛まれました。父・亀二郎も母・ウトも大里村稲嶺出身でカンポ・グランデで野菜を栽培して暮らしてきました。私が乳飲み子のとき、母は亡くなりました。幼少のころは、伯父(母の兄)夫婦の世話になって育ちましたカンポ・グランデには沖縄出身の移住者が多く、日常の会話は「ウチナーグチ(沖縄方言)」でしたが、公式の場ではポルトガル語で話しました。私はブラジル生まれの二世ですから、日本語は上手に話せません日本語を本格的に習得したのは二十歳を過ぎてからです。私は一九六四年にカンポ・グランデを離れて、サン・ハウロに二年、それからリオ・デ・ジャネイロに八ヵ月ほど暮らしました。新しい首都・ブラジリアが出来たばかりのときでした。ブラジル政府は、南部海岸への産業・人口の集中を修正し、内陸部開発をはかるために、ブラジル高原の中心部(ゴイアス州)に画期的な計画都市を建設しました。新しい都市は、ブラジリアと命名され、一九六〇年に首都がリオ・デ・ジャネイロから移ってきました。私は、会計士の資格を取っていたので、政府職員として働く希望をもって、ブラジリアに移り住むことにしました。政府機関の集中するブラジリアは、独自の計画都市であり、若者に夢と希望を与えてくれました。フラジリアは、サン・パウロから一二〇〇㎞も離れた高原の都市ですが、大陸のブラジルでは、それほどの距離感はありません。リオ・デ・ジャネイロやサン・ハウロから飛行機で一時間半ぐらいだし路線バスも渾行しています。私は会計士として政府機関で働くことになりましたブラジリアに移ってきたときには、二十一歳になっていましたが、大学にも通って勉強しました。週に二回は日本語学校に通いました。私は、日系二世のシズカと出会い、結婚することになりました。彼女の両親は群馬県出身でトマトなどを栽培する農家でした。

父母の生まれ島初めての沖縄訪問
ブラジリアはほかの都市とは違って、沖縄からの移住者は少ないが、県人会の支部は組織されていて、私が沖縄県人会のブラジリア支部長をつとめています。このたび、第三回世界のウチナーンチュ大会」が開かれるというので、私たち夫婦は、初めて沖縄を訪問しました。一ふたつの祖国」という言葉がありますが、父母の生まれ育った島を訪ねて、祖国がそこにあるということを実感しました。人びとの優しさと思いやり、おだやかな自然、すべて気にいりました。私は、三人の子どもに恵まれました。長男のアンドレ・ケンジは、会計士としてブラジリアの政府機関で働き、二女のフェルナンド・ミドリは獣医としてバラカトの町で働いています。長女のクリスティーナは留学生として沖縄に来ていて、県立芸術大学でデザインの勉強をしています。第六回大里まつりが、十一月三日と四日に盛大に催されました。まつりの内容を掲載した冊子の表紙のデザインは、クリスティーナが描いたものです。皆さんへの感謝と、誇らかな気分です。
大里村移民史編集委員
安仁屋政昭

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大分類 テキスト
資料コード 008463
内容コード G000001090-0008
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第258号
ページ 5
年代区分 2000年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 2002/02/01
公開日