なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

大里村史移民編編集事務局ニュース 移民史証言シリーズ(37) アンデス麓の大里村人 宮城盛実(屋号・新前新屋)

カタマルカ市の二人だけの日本人
私は、父・宮城盛清、母・カメの七人兄弟(五男、一女)の五男として中国のサンソウ島で生まれました。大里中学校を卒業して、家業の農家に従事していました。琉球政府のボリビア移民計画があることを知り家族移住の申請をしたところ受け入れられ、ボリビア家族住民が一九五七年(昭和三十二)に第四次入植団としてチシャダネ号でボリビアへ移民しました。家族構成は、父母・兄・盛光(三男)私、妹・初子の五人でした。私は二十歳でした。提供を受けた五十ヘクタールの土地を開拓しはじめたものの、生活は思うように良くならないのでやがて気持ちは焦りがつのり、ついにアルゼンチンに新天地を求めて単身転住しようと決意しました。ボリビアに近いカタマルカ洲の洲部のカタマルカ市在住の同字の先輩である金城忠安氏を頼って一九六二年(昭和三十七)に転住しました。金城氏の洗濯店で洗濯業に従事し仕事を身につけました。その後、家族は全員アルゼンチンに転住しましたが、一九六四年(昭和三十九)に兄の盛光家族をカタマルカ市に呼び寄せました。私達兄弟はそれぞれ洗濯店を経営してきています。私は一九六八年(昭和四十四)に具志頭村出身二世のテレサと結婚し、洗濯店の他に事業の拡大を模索しました。幸いにも、私の店の通りが市の長距離バスターミナルに隣接していることを立地条件が良いと考え、ホテル業への進出を実行してみました。現在では、一九六〇年代(昭和三十五)から一九七〇年代(昭和四十五)のように洗濯業はもうからない、国の経済が思わしくなくなった結果です。その後、ホテル業も軌道にのり、建物を三階建てに改築して部屋数(十六室)を十室増加しました。(ホテル名sol Hotel)。カタマルカ市では中級のビジネスホテルとしての地位を築き上げてきたと思います。ホテルの立地条件は予想通りの経営に好ましいという考えは間違っていなかったと思います。現在、洗濯店(ティントレリア・ミヤシロ)は妻と従業員二人にまかせ、ホテルは二男と長女の二人が管理担当していますそして、ホテル経営規模を拡大し、さらに二十室増し四十六室のホテル経営を目ざし、設計図もすでにできあがり、近い将来においてカタマルカ市でもトップクラスのホテル経営を楽しみに頑張っている現在です。子供は二男一女で、長男は現在コルドバ市にある陸軍病院で医師として働いています。私達と同様、洗濯業を営んでいる五歳上の兄の長男は洗濯店の隣室でコピー業を営んでいます。二男と三男は十年程前から日本で出稼ぎで働いています。人口十八万のカタマルカ市で日本人は我われ兄弟だけが生活しています。アンデス山麓の盆地に位置するこの都市にはスペイン系のほかアラビア系も多く、他にスペイン系とインディオとの混血のメスティソも共に生活しています。私は朝にはいつものレストランでコーヒーの集いに参加し、多くの市民とつきあい情報収集の場として利用しています。友人は仕事のほかに釣り仲間、ビリヤード仲間などと楽しいひとときを過ごしています。ここカタマルカの街では、「ミヤシロ二人兄弟」としてつきあいをしていただいています。私の名前の「盛実」はスペイン語の発音ではなじめないので、友人達は私をフランシスコ・パンチョと呼んでつきあいをしています。二十歳でボリビアに移民し三十八年もここで過ごしてきました。いつも前向きに人生を送ってきたつもりです。思うに、アルゼンチンの風土は私の性格に非常に適した環境をもっている国です。ここに来て私は満足しています。これからもすばらしいアルゼンチンの人々と共に有意義な人生を送りたいと思っています。(世界のウチナーンチュ紀行・アンデスの麓のカタマルカ・二人だけのウチナーンチュ沖縄テレビ作成より収集)
村移民史編集委員
琉球大学教授 島袋伸三

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大分類 テキスト
資料コード 008463
内容コード G000001089-0005
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第257号
ページ 5
年代区分 2000年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 2002/01/01
公開日