軽便鉄道の車掌
金城武雄(屋号・西仲)
(生いたち)
私は、父・宮持、母ウシの九人姉弟の長男として生まれました。一九三七年(昭和十二)、第二大里尋常高等小学校を卒業しました。その頃父の失敗で家族も貧困でしたので、年季奉公や第二大里尋常高等小学校(現南小学校)で給仕として勤めていました。その当時の学校長・喜屋武清栄(小禄出身)の指導で、学問の大切さを教授され勉学にいそしみました。その頃沖縄県鉄道公社の入社試験がありましたので、校長の勧めで受験をしました。お陰で難関と言われた県鉄(沖縄県鉄道)に合格することができ、十七才で汽車の車掌として採用されることになりました。弟・文雄は機関助手として勤務。姉・キクは、県鉄経営のバスの車掌として働いていました。バス路線は、稲嶺と東風平に営業所がありました沖縄への鉄道敷設計画は、一八九四年(明治二十七)から一九一一年(明治四十四)一月県営による鉄道敷設が取り上げられ、一九一二年(大正二)から一九一四(大正三)十二月一日那覇から与那原線への営業が開始されました。糸満線や嘉手納線も敷設され、大里駅は一九一七年(大正六)に開設されました。「沖縄県鉄道」は親しみを込めて「軽便鉄道」と呼ばれていました。私は一九三九年(昭和十四)から一九四二年(昭和十七)まで県鉄で働きました。大里村出身では初の車掌として勤務でした。以来、村出身としては、字大城の城間精吉、字稲嶺の大城正一、字平川の上原盛吉、上原信栄、上原盛善、大城平孝、字高宮城の恩川長啓の皆さんがいました。
(鉄道技術兵として満州へ)
鉄道業務は庶民の羨む職業でした。車掌になるまでの職務は、駅守、転鉄手荷物係の順でした。一九四二年(昭和十七)、車掌として勤務中に糸満国民学校で徴兵検査を受け合格。九四三年(昭和十八)一月十日に入営することになりました。沖縄からは九州の連隊に入隊するのが多かった中、私は千葉県津田沼にありました。八七連隊に、鉄道兵として四カ月間の訓練を受けました。一九四三年(昭和十八)四月十三日午後三時に津田沼を出発、福岡から釜山に渡り汽車で牡丹江省へ移動。六六八部隊鉄道四連隊に配属されました。鉄道技術兵の役割は戦地での鉄道敷設の仕事で、最初は地ならし、枕木設置、鉄道設置という具合に、日四㎞の鉄道を完成させていく前線部隊の役割を果たしていました。鉄道は、戦地での食糧や弾薬の輸送が主な役割であります。
(シベリアへ)
一九四五年(昭和二十)八月に、ソ連軍隊が突然進撃してきて、日本軍は無防備のまま十日間の戦いで負けました。八月十五日の敗戦の報を聞いた後に捕虜となりました。ウラジオストックとは反対方向へ進んでいるのが分かりました。所持していた地図に目を通すとモスクワの方向に汽車は走っていました。貨物列車に十八日間閉じ込められ、着いた所はソワレンスクでした。身につけていたのは兵隊の階級章(軍曹)でした。五〇〇人余の兵隊の中で、唯一の秩序を維持するには階級を証明することが必要でした。ソーレンスクでの毎日の仕事は大樹の伐採で、財木として切り出す事でした。零下三〇度以下の中での作業は、人間の極限の状況でした。栄養失調や病気で亡くなったものは埋葬ができず、八、九月の雪解けになってから地面を掘って一カ所に葬るのでした。半年後炊事係に命じられ、八人の部下と給食担当となりました。給食は黒パンと塩汁が主体でした。捕虜収容所で二〇〇人が亡くなりました。このような状況の中から生き抜いて戦後を迎え、一九四八年(昭和二十三)ナホトカから京都舞鶴に上陸。宮崎県に疎開していた姉弟たちも沖縄に引揚げたと聞いて安心しました。
移民史編集事務局
我部 政照
| ダウンロード | https://drive.google.com/file/d/1GW24SW7sKuwDtAq76QNUQl1h8Sxzrhnu/view?usp=drive_link |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 008463 |
| 内容コード | G000001085-0006 |
| 資料群 | 旧大里村広報 |
| 資料グループ | 広報おおざと 第253号 |
| ページ | 5 |
| 年代区分 | 2000年代 |
| キーワード | 役所・役場行政広報 |
| 場所 | 大里 |
| 発行年月日 | 2001/08/01 |
| 公開日 | ー |