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大里村史移民編 編集事務局ニュース 移民史証言 シリーズ(34) 長い軍隊生活とシベリア抑留

新垣正吉
(生いたち)
私は、父・新垣稲吉、母・カメの長男として、字稲嶺に生まれました。母の実家も同字の新垣亀(屋号・大屋)で、その長女です。きようだいは五人(男四、女一)です。三男・吉三郎と四男・栄吉はブラジル移民をして、三男は食堂経営をしています。一九八八年(昭和六十三)には、二人揃って帰郷していました。二男は亡くなっていますが、妹・ハル子は玉城村愛地で健在です。その頃父は農業をしていて、畑が三〇〇〇坪、水田が約六〇〇坪ありました。私は第二大里尋常高等小学校を卒業し、高等科二年も修了していました。その後、父の農業の手伝いをしていました。

(徴兵、そして戦地へ)
一九三七年(昭和十二)満二十歳のとき、徴兵検査を受け合格しました。私は十九歳で字目取真出身の大城スミと結婚しました。現役入隊をするため鹿児島まで船で行き、熊本第六師団に入隊。熊本県黒石原で訓練を受けました。その頃妻が身重であることを知りました。三カ月後、輜重兵として中支壮途に派遣され、南京付近で任務を遂行しました。迷走する馬腹につく泥を衝いての輸送は千辛を伴いました。燈原の火の如く燃えさかる戦線に追随して擬装作戦に活躍しました。一九四〇(昭和十五)一月に除隊後、勲八等旭章を受賞しました。支那事変から帰って半年後の一九四一年(昭和十六)七月、再び原隊役へ召集され、満州東安省の七戦部隊第三中隊へ編入し、馬蹄兵長として任務に就くことになりました。妻・スミはお国のためだからと諦めて見送ってくれました。那覇港から上海へ軍用船で直行でした。歴史を語る揚子江の壮大な流れに英姿を映し鋭意任務につき、果てしない広大な満州の地で苦難の日々を過ごしました。ソ連国境線近くで道路づくりの警備丘をしていました。道路完成の検査が終わった直後、入口方面からソ連軍が攻撃してきました。日本軍は逃げ迷うだけでした。一週間ほど戦闘中捕虜になるまで応戦でさまよい、トウモロコシを食べて過ごしました。中には毒のある草を食べて亡くなった兵士もいました。満州での大里出身の現役兵は私と仲本盛章(字島袋)の二人でした。その他は召集兵で、本村出身者は屋宜宣勇、森田湧謹大城元長(以上字湧稲国)瑞慶覧長樽(字平川)、新垣康善(字大城)、宮城取亀、大城松(以上字目取真)で、ほとんどが明治生まれでした。

(抑留生活)
私たちはソ連国境で捕虜として抑留されました。果てしなき満州の地に峻列な任務の日々を重ね苦難に処し、シベリア、チクロバヤ各地の山奥に連れて行かれました。零下四五度にもなる極寒地で凍傷にもなり、手や耳が黒くなりました。食事は毎日黒パン(麦)だけでした。過酷な使役に加え酷寒と飢餓の三重苦に苛され、筆舌に尽くし難い辛酸を体験しました。木材の伐採は二人一組で、トラック一台分が一日当りのノルマでした。このような抑留生活から解放されたのが一九四九年(昭和二十四)十一月でした。シベリア生活四年の歳月が過ぎました。日本への帰国にあたっては、汽車で一週間かけてナホトカに着き、九死に一生を得て京都府舞鶴港へ引揚げました。その後舞鶴港から沖縄へ帰り、中城にあるインヌミヤードゥイに集められDDT散布をされました。二~三日後大里へ引揚げて来ました。現在は子供六人(男五、女一)に恵まれ、孫十四人と幸せな人生を送っています。
移民史編集事務局
我部 政照

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大分類 テキスト
資料コード 008463
内容コード G000001084-0009
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第252号
ページ 5
年代区分 2000年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 2001/07/01
公開日