なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

大里村史移民編編集事務局ニュース 移民史証言シリーズ(30) 十七歳でチリー国へ

新垣稲恒(屋号・福知小)
一九一二年(大正元)十月二日生

村初のチリー国移民
私は、父・稲依、母・カマの長男として、生まれました。きようだいは、七人(男四、女三)です。第二大里尋常小学校を卒業後、両親の農業を手伝っていました十七歳の時、おばの宮城ナべを頼ってチリー国へ移民するため、両親に相談したところ、お前は長男だからと言って反対されました。しかし、私の意志が強いことを知って納得してくれました。一九三〇年(昭和五)、渡航の準備を終え、いよいよ出発することになりました。六月九日、那覇港から銀洋丸に乗船、チリー国へ直行で神戸から出港。途中、キューバ経由で二カ月かかりました。当時、沖縄は生活が苦しく、どの家庭も子沢山でした。私の家庭も同様で、口減らしで家族を守るためでした。母にとっては苦労が少しでも減ればよいと考えたのでしよう。貧しい中での渡航費については、父が模合をかけて工面したようです。

床屋の見習い
「一万貫儲キティ、ケーティクーヨー」と父母に言われ、沖縄を離れ、チリー国に着きました。おばの農場で、万年農業を手伝いながら床屋の見習いを四年続けました。二十亡歳の時、熊本県出身の本田キクと結婚しました。二人の間にセリシオとミゲールの二人の男の子が生まれました。幸せな家庭が築かれつつありまーしかし、長男が十歳のとき妻が亡くなりました。その後、男手一筋で子供の養育と仕事の両立に、大変な苦労の日々が続きました。その頃、沖縄が第二次世界大戦で全滅したとニュースを聞き、ショックを受け、毎日泣いて暮らしていました。どうして自分一人、こんな遠い国へ来たのだろうかと、自暴自棄になっていました。

郷里訪問
一九七四年(昭和四十九)ペルー生まれの二世、エレナと再婚しました。父が長い間独身で生活しているのを、息子が気の毒に思い、友人を介してエレナを家に連れて来たのが縁で、父も意気投合。優しいエレナを迎えることになりました。一九八四年(昭和六十)一度も郷里を訪れることがありませんでしたが、弟・正信夫妻、妹・菊江、末子の三人の招きで、五十四年ぶりに郷里大里村字稲嶺を訪問することが実現しました。親戚の厚い歓迎を受け、妻と一緒に三カ月滞在しました。私には、七人きようだいがいましたが、今時大戦で、弟(善栄)が戦死、また郷里訪問後、姉(静)、弟(清保)、妹(末子)が亡くなりました。現在は三名が健在です。

床屋一筋七十年
チリー国生活七十年の歳月が過ぎました。その間日本語を使う機会が少なく、また、字を書くことも疎遠になりがちでした。きようだいたちへの連絡は、ほとんど電話で行っていました。現在、チリー国には日系人も少なく、二〇〇人くらいですが、特に沖縄県人はほんの数えるしかいません。私には、先妻との間に長男セリヒヨ(警察病院定年)次男・ミゲール(救急配車係定年)がいます。私にとって郷里の想い出は与那原馬車ムチャー、山原薪炭を積んだ山原船、軽便鉄道などが脳裏に焼き付いています。また、父母の想い出として、父は子供おもいの人でした。母は優しい方でした。などが忘れられないようです。二〇〇〇年四月二十二日から六月七日まで、チリー国を訪問した実弟・正信の妻・美智子さんと、義妹の内間米子さんが、チリー国を訪問したときに稲恒さんも元気で子供や孫達に囲まれて幸せな人生を送っていることを確認しています。郷里からの訪問に対し稲恒さんはじめ家族一同大変喜んでくれました。ただ言葉に対して不便だなと感じ、兄が元気の間はよいがと一抹のさびしさを感じたとのこと
移民史編集事務局
我部政照

ダウンロード https://drive.google.com/file/d/1xnesTsazP1IpVdTqcak0enFWg3xYKWf5/view?usp=drive_link
大分類 テキスト
資料コード 008463
内容コード G000001078-0009
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第246号
ページ 7
年代区分 2000年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 2001/01/01
公開日