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大里村史移民編 編集事務局ニュース 移民史証言 シリーズ(28) ハワイに二世の軌道 ーその二ー

外間盛安(字平良)屋号・次男ナーカスム
徴兵令
一九四一年十一月徴兵令により、スコーフィルドの298部隊に入隊、同年十二月七日、日本軍による真珠湾攻撃により、百大隊の一員として、一九四二年ミネソ夕州兵営内の通訳養成学校に入学した。日本の前線基地であり、アメリカの勝利を決定したと言われたグワダルカナルに陸軍情報部の一員として派遣された。主として日本兵捕虜の訊問で、それから得た情報で戦争を有利に導くことであった。ブーゲンビルでは従軍記者を溺死から救助して、マッカーサー司令官からメダルを授賞され、勇敢な行為に対して与えられる青銅星章を受けた。ブーゲンビル島では熊本の六師団兵の捕虜の中には、沖縄県出身兵も数多く含まれていた。一九四四年、前線よりハワイに戻り、沖縄攻略戦に伴い沖縄方言を将兵達に教える事になった。私は陸軍情報部に属していたので、沖縄攻撃に関しては一九四五年四月一日に上陸する事を四カ月前から知らされていた。通訳兵として、沖縄参戦に行く予定であった。しかし将校の指示もあり、授賞や結婚もしているとの理由で取りやめになった。それでも心情的には、県民始め親兄弟や親戚の救助に行く気持ちであった。一九四五年十一月、名誉の除隊をし五年間の軍隊生活を終えた。

戦場で県人兵との出逢い
戦場での捕虜の訊問に当たっては、相手兵(日本兵)の殆どが手榴弾を携帯していて、訊問に当たっては、取り上げてから行った。出身地別の調査に携わっていると県出身独特の名前に出逢った。その名は一目瞭然として分かった。大城・比嘉・金城などである。youは沖縄人かと訪ねると、大変懐しそうに貴男も沖縄ですかと言って涙を流す兵隊もいた。今思えば悲喜劇の一場面を想い出しままた、沖縄から日本捕虜が二〇〇〇人ハワイに連行された事があった。丁度その時の通訳担当の部隊長をしていた。五人の部下と訊問に当たっていたとき沖縄出身兵と日本兵が混じっていたのでセレルゲ(select)するよう軍司令部からの通達があった。その仕事に当たっている最中、日本兵の中には偽って沖縄県人を名乗る者もいた。そんな時にはyouは沖縄県人ではない。正直に出身県を言いなさい。と叱った事もあった。沖縄と言えば穏便に取り扱われるとでも思ったようである。その当時訊問を受け外間盛安氏、カマドご夫婦た捕虜は各県毎に帰還された。

戦災救援運動
戦後、ダラの救援運動にも拘わった。沖縄へ衣類を送る運動が展開され、県系移民が盛り上がった。一九四七年、ハワイ在県系人により優良豚の救援活動が活発になり、北米各地から集められ沖縄に五〇〇頭が送られた。それから二年後の九四九年、Goat Brlgade(山羊編成団)を編成し、六〇〇頭の乳山羊を北米各地から集め軍用船を借用して十七日間掛けてホワイトビーチに運んだ。その時の通訳兼責任者として沖縄を訪れた。嘉手納エアベースの将校が私のレコード(record)を見て沖縄で働いてくれと頼まれた事もあった。その頃から生命保険会社を経営していました。現在も多くの保険会員を抱えています。妻はカマドで豊見城村高安出身です。一人息子のアイジャック外間は私同様県人会長も歴任している。八六歳の今も沖縄で培われた逞しい肉体と精神力の持ち主で、たくましくハワイに根付いている大里子孫の一人です。
移民史編集事務局 我部政照

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大分類 テキスト
資料コード 008463
内容コード G000001076-0005
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第244号
ページ 5
年代区分 2000年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 2000/10/01
公開日