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大里村史移民編 編集事務局ニュース 移民史証言 シリーズ(27) ハワイ二世の軌道-その一-

外間盛安(字平良)屋号・次男ナーカスム
沖縄県ハワイ移民一〇〇周年記念式典を兼ね、大里村ハワイ移民調査実施のため、石川友紀(編集委員、琉大教授)、それに屋冝由章村長ご夫妻と共に参加いたしました。本村移民聞取調査のため同行しました。到着した翌日、沖縄県移民一〇〇周年記念式典に出席(一月八日)。外間盛安氏の聞取り調査実施のコンタクトを取って一月九日午後四時の約束であった。ケイツ城間氏(字目取真)の運転で外間氏宅へエスコートしてくれた。ソルトレークの静かで落ち着いた屋敷構えの住宅に案内された。外間氏は、本村出身ハワイ二世では最高齢者の一人です。自宅前で奥様カマドさんと二人揃って歓迎してくれました。しばらくすると、長男・アイジャック外間(一九五二年生まれ)が笑顔で入ってきた。早速家族揃ったところで石川教授の聞取り調査が開始された。
外間さんは、父・良安、母ウシの四名兄弟の二男とし〔ワイオワフワイパフで生まれ、生後一年半で母に連れられ沖縄へ行きました。当時、日支事変の気運を推した父は、私を避難させたのです。父は一九〇五(明治三八)年、ハワイ移民として渡った。母は一九一三(大正一)年、呼び寄で来布。私はその一年後ハワイで生まれました。私には兄正昌(沖縄生まれ)がいました。兄は大変優秀で、県立一中を卒業後、師範学校を卒業、東京物理学校へ進学しました。卒業して東京都内で教師として務めていましたが、沖縄師範教師に招かれ休暇で来沖中、デング熱病で逝去、若干二八歳であった。その後姉・春子も他界し、現在妹・スミ子と二人です。妹は那覇市で健やかに暮らしています。

幼年期
九一五年、父の郷里字平良に母に連れられて来ました。来沖以来、幼年期の大半を過ごしました。大里第二尋常小学校(現南小学校)に通いました。当時の小学校は六年制でした。五年生まで出て、六年生に進級するとき県立一中に合格しました。一九二八(昭和三)年、一中(現首里高校)に入学。その当時大里から首里までの交通が不便で徒歩涌学でした。一中までの通学路は、南風原村を通って、首里坂下から赤田を抜け、片道四㎞以上の道を通いました。それに、靴も高価でしたので大事に履くため学校の近くまで裸足で通い、校門近くに来ると履くという通学生活でした沖縄県立一中は、五年制で、昭和八年卒業しました。思えば私より二期先輩の与那原出身で、仲嶺眞助さんが通っていました。

父の死
父・良安は、私が沖縄に来て三年後一九一七(大正六)年、私が丁度五歳の時にハワイで死去しました。父はハワイ滞在十三年で仙界した事になります。しかも「度も郷里に帰る事なく生涯をハワイで終えた事になりました。父の郷里、大里村から最初のハワイ移民は、一九〇四(明治三七)年でした。父は、二回目のハワイ移民になります。その年、一緒にハワイへ渡った本村出身移民は三○名だったそうです。移民当初はキビ作労働で大変厳しい条件下であったと思います。大里村から三回目の移民は一〇〇名余が来布、以来大正から昭和八年に至る移民の数は四二九名に達したそうです。

ハワイへ帰る
一九三二(昭和七)年県立一中を卒業後、大里村役場書記官として六カ月勤務していました。その頃日支事変の気運が高まり始めた。母・ウシの勧めでハワイへ帰るように言われました。沖縄にいると徴兵されるとの事でした。今思うと母は大変スマート(smart.でした。沖縄に残っていたら戦死していたかも知れません。母に言われた後、ハワイにいる叔父・加那に早速手紙で帰国の理由を書いて送りました。渡航費がなく、借金で那覇港から二日間かかって神戸に着き神戸から日本郵船(秩父丸)で一週間かけてハワイに到着しました。私はハワイ生まれですのでパスポートは日本政府が発行してくれました。二重国籍保持者と言う事になっていました。
(十月号へ続く)
移民史編集事務局 我部政照

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大分類 テキスト
資料コード 008463
内容コード G000001075-0007
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第243号
ページ 5
年代区分 2000年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 2000/09/01
公開日