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大里村史移民編 編集事務局ニュース 移民史証言 シリーズ(25) 村移民史編集現地調査の概要

(アルゼンチン国(Ⅲ)
一九九九年三月十八日にアルゼンチンに着き、空港まで出迎えて下さった前村人会長の比嘉光雄氏と仲村渠ノエミさん(村研修生)の案内で市内のホテルにチェックインする。その日の午後八時半から市内のレストランで村人会主催による歓迎パーティが催され五〇名余の村人の方々が参加し盛大で有意義な交流会で心から感謝の念を申し上げました。参加された主な方々は、大城仁助(大城)、城間正保、前村人会長の大城秀光、大城保岳(目取真)、外間巌、又吉良吉、宮城昭(以上平良)、屋宜宣助(湧稲国)、玉城勝(稲福)、比嘉光雄の一家、川平正光、仲村渠清子一家(稲嶺)、他三十数名。比嘉光雄氏の記録によれば大里村人が最初にアルゼンチンに足跡を残したのは一九〇八年ブラジルに入港した笠戸丸のメンバーで、比嘉仲直(仲程)、知念南巌(南風原)宮城盛孝、宮城樽、上原山(古堅)の五名で一九一〇年であった。更に一九一二年に神奈川丸でブラジルに渡った玉城牛(稲嶺)が一九一三に転住していその後一九一五年に、知念福栄、新垣良賢の両氏が渡っている。次に、一九一六年に東洋丸でチリーを経て、大城南巌(南風原)、知念辰盛、宮城良光(平良)がブエノスに着いている幸いに、私達を案内し全日程や村人への連絡等を引き受けて下さった比嘉光雄氏は、個人で在アルゼンチン大里村人会創立三五周年記念誌を発刊すべく原稿も完成している。その序文によると、当時の沖縄は経済的に乏しい苦難な状況から脱出する為に、又は家族を救う為に、一攫千金を夢見て先輩達は新天地を求めて故郷を後に「モーキティクーヨー」の声に送られて旅立っこの様な歴史的背景を持っていながら先輩は唯一人として墳墓の地と定めて移民した人はいなかったようだ。異郷の地で一旗揚げて一日も早く故郷に錦を飾って帰り、カーラ屋を建て、田畑を増やす事しか頭になかったようだと記している。民族・気候・言語・風俗習慣の全く異なる国での生活は苦闘の連続であった。初期移民は港湾労働・工場労働・家庭奉公など過酷な肉体労働に従事する他に道はなかった。大東亜戦争で日本が敗れ沖縄も灰燼と帰した時点で、先輩移民の考え方が一八〇度変わった。金儲けて帰郷すると言う錦衣帰郷の願いは変わり、アルゼンチンを永住の地と定め、不動産を求めて各事業の発展と子弟の教育に一段と力を入れたのでその努力が今では百数十名の学士号取得者を世に送り、医者・弁護士・建築技師・公認会計士・大学教授等その他多彩な分野でアルゼンチン国に貢献している。と比嘉氏は記述している。二月十九日と二〇日は早朝からアルゼンチン県人会館のホールで調査を開始する。比嘉氏が既に各世帯別に村人の家族構成調査表を作成していたので調査もはかどり、約一○名余の調査が出来た。その各氏だけを記しておきます。知念幸子、知念敏雄(旧姓平ロサーリオで村人会の婦人の皆様田)、知念賢信(以上南風原)、又吉良吉(平良)、玉城勝、玉城善栄(稲福)、新垣盛功(当間)、上原キヨ、大城盛徳、大城秀光(目取真)、仲村渠真史、川平正光(稲嶺)、大城仁助(大城)、宮城盛仁(仲程)。三月二一日は、県人会の運動場「うるま園」で県人会主催のゲートボール大会があり、その場で調査した。新垣盛徳(当間)、仲村渠稲記、新垣哲次、新垣義政、大城清(以上稲嶺)、大城保岳、又吉信栄、外間巌(平良)、上原勲(平川)、宮城文子(古堅)。三月二二日はロサーリオの県人会館で調査した。上原昌俊、上原経吉(古堅)、比嘉善徳(島袋)、外間良正、外間和子(平良)、大城エクトル、照屋ロベルト(稲福)城間正孝(平良)。調査終了後、ロサーリオ大里村人会主催の歓迎パーティが催され二〇数名が参加し夜遅くまで話が弾み、にぎやかに交流が行われた。感謝感激。翌二三日にブエノスに帰り、最後に比嘉光雄氏の調査を終えた。コルドバやその他の地域までは行けず残念でしたが、全ての日程を案内し、車の運転までして下さった比嘉光雄氏に心から感謝申し上げます。
大里村移民史編集委員長 瑞慶覧長方

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大分類 テキスト
資料コード 008463
内容コード G000001073-0009
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第241号
ページ 5
年代区分 2000年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 2000/07/01
公開日