なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

大里村移民編 移民史証言 シリーズ(17)

私は三灶島一次移民 新垣善守さん(当間)
私は、父善一、母ウシの五名兄弟(男三、女二)の二男として字当間で出生いたしました。第二尋常高等小学校(現大里南小学校)を六年で卒業、十三歳で父母の手伝いをしながら、キビ作農業を手伝っていました。十八歳で大阪に渡り、酒商売をしていました親戚の大城家(平川仲門)で十八歳までの四カ月間働いていましたその後帰省、父母の手伝いをしながら徴兵検査を受けました。兵役二等兵として、福岡久留米第十八大隊入隊、二十二歳で帰郷、昭和十三年、二十八歳で召集され、宮崎百二十三大隊に入隊、馬の輸送のため汽車に乗馬作業中、馬足で蹴られ負傷、三カ月後帰郷しましたしはらくして分家をしました。昭和十四年三灶島への農業移民を希望(軍属移民)しました。沖縄県下から五十名の戸主が、第一次移民として採用されました。大里村から玉城直苗(字真境名)を含め十五名(三〇%)が渡航、字当間からは、私を含め(端慶覧長祥、比嘉善榮)の三名が行くことになりました。

三灶島の農業
三灶島は中国領で、広東省管轄下の小さな島で、台湾と香港の中間に位置し沖縄で例えれば久米島に匹敵する面積で、世界地図に図示されない程の島であります。土質は、表層部が砂質からなり三〇センチ程の深さから赤土で形成され、保水を保っている。大変珍しい土壌形態でありますしかも表面には小石が多いが、用水量が豊富で稲作栽培には好都合に出来ています。このような諸条件が適応しているものと考えられます。畑地は痩せ、二毛作田としては、不適地であると思いましたが結構年二回の耕作が可能でした。

農地の貸与
一戸当り水田貸与面積は、二町歩(六千坪)でした。しかし実耕作面積は、三千坪位しか出来ませんでした。島の家畜といえば牛と水牛が、主労働力として使われていました。私たちは到着後六カ月間は海軍からの報酬が一日当り二円支給されました。その後は、自給自足の生活が確立され、収穫米の殆どは、軍隊の食量として収めていました。最初の種籾は沖縄で栽培さ軍用手票が使われていた百円(上)、10円(下)れていました台中二十四号種を持って渡航しました。私が三灶島に移民を希望した一つの理由に兵役から逃れる手段でもありました。

沖縄県民のみの移民地
この島の先住民は、中国系で、約二千人ほどが住んでいました。住民は六カ所に集められ、牧畜業を営み、人柄も温厚で性格もやさしい民族でした。半農半漁の農民は売買などを通して友好的な交流がありました。昭和十四年に移民が開始され、沖縄県民を対象に計画された政策で、財務省の計いで実施された事業であると聞いていました。当時南洋諸島地域の在軍人の食糧供給が主目的であったと思います。第二次移民を含め百家族が移民して来たことになります。このように沖縄県民が一つの島に移民として受け入れられた事例は、過去に類をみたことがありませんでした。

渡航経路
沖縄から三灶島へは、那覇、三灶島へ直行した記憶があります。引揚者特別交付金償券。軍の徴集船を利用・開拓者への配慮があったと思います。移民当時ワイルス病が流行、犠牲になった移民も一割ほどいました。昭和十五年家族を呼び寄せました。妻(安子)と緒に、比嘉善営さん(字当間)が移民して来ました。善営さんの感想として、島の農地は痩地で農作物を栽培するには不適であると思ったそうです。去る大戦では、地上戦はなく、空爆のみで終戦を迎え昭和二十年に引揚げ浦賀港宮崎、沖縄と家族一緒に帰郷しました。戦後まもなく与那原町と大里村が分村、戦後第一回目の大里村議会議員として務めました。結婚生活六十五年余を迎えますが、ゲートボールも現役でやっています。
(事務局・我部)

ダウンロード https://drive.google.com/file/d/1TPdJGjKB7f6yjpwHNL70vKx9p896QhZr/view?usp=drive_link
大分類 テキスト
資料コード 008462
内容コード G000001064-0009
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第232号
ページ 5
年代区分 1990年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 1999/09/01
公開日