なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

大里村移民編 編集事務局ニュース 移民史証言 シリーズ(16)

私もフィリピン移民 島袋繁久(大城)
父の話を聞いて感動
私は父大道、母カメの二男一女の三人兄弟の二男として字大城で出生いたしました。父は、私が三歳の時(大正元年)にフィリピンに移民しました。大正十五年に一時引揚げて帰郷いたしました。父は再びフィリピンに渡り兄太郎(明治三十五年生)を呼び寄せました。私が十六歳の時(昭和二年)に再帰郷しました。父はフィリピンで経営していた農場を売り払って帰り豪華な石垣の屋敷に家を建てました。その時フィリピンでの色々なお話しを聞いて感動いたしました。

少年時代から広い国へ
フィリピンでの麻栽培のことなどを聞いて大陸への移民希望が大きく膨らんできました。幸い私は二十一歳の徴兵検査も終えていました。私は大里第二尋常高等小学校高等科二年を卒業し、二十歳になるまで、約四〇〇〇坪の畑を母と一緒にさとうきびを中心に、野菜豆類等を栽培していました。しかも少年の頃から広い処で思う存分働きたいと夢を見ていました。当時は、徴兵検査で甲種合格者しか、兵役には行けず、乙種以下は兵役を免除されていました。当時大里村で甲種合格者は、僅か十三名でした私は幸い乙種でしたので、兵役を免除されました。昭和四年四月三十日、フィリピンへ渡航する前に長崎県にあった領事館で、約一カ月間渡航に必要な検査、検疫、旅券申請等の出航手続きを受けるため滞在しました。旅券を受け取り外国船で長崎港から香港経由してマニラ、ミンダナオ島、サンバンカ(町)ダバオ港とずい分日数をかけて到着しました。

現地での麻栽培と開墾
渡航費は全額父が支払ってくれました。金額については忘れましたが、見せ金として六ペソ支払った覚えがあります。しばらくの間、父の農場で働き、現地の状況が次第にわかるようになった時点で、現地人の地主から、小作で売り上げの一割を地主に支払う契約で独立、開拓農地を開墾麻栽培をスタートさせました。開拓地には、直径一メートルもある大きなラワン材や森林を伐採して焼畑農法を取り入れて、約二十町歩(六万坪)にまで開墾しました。作業人夫は、現地人を毎日五人雇っていました。麻苗は約三メートル間隔で植え生長も早く二年余で収穫ができました。苗の小さい期間は間作としてトウモロコシを植えたり、二ワトリを放し飼いにして反収増大を計り、収入増を図った。

スペイン語を独学
私はフィリピンへ行くことを決心した時からスペイン語の本を買って勉強しました。そしてフィリピンに着いた当初からスペイン語を書くことができました。昭和十六年十月八日の真珠湾攻撃の日から、日本人は捕虜となり米軍やフィリピン軍の指揮下に置かれました。私も現地招集されました、畑地は現地人に奪われ、裸一貫となったのです。昭和二十一年、戦後処理によブラジルより帰国した妹のヨシと私り横須賀の浦賀に上陸、福岡まで汽車に乗り家族と合流宮崎経由で久場崎に到着しました。帰郷後は色々な職業を経験しました。理容店を経営した後、大里村役場の警備員をしました。人生色々苦労しましたが人間の一生は先ず、健康で長生きすることが大切だということを肝に銘じています。
(事務局・我部)

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大分類 テキスト
資料コード 008462
内容コード G000001063-0004
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第231号
ページ 5
年代区分 1990年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 1999/08/01
公開日 2026/03/27