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大里村史移民編 移民史証言 シリーズ(15)

私はフィリピン帰国者 玉城雄助(南風原)
父玉城南和、母ウシ(ウサ)の四男として、で出生いたしました。兄弟は六名(男五、女一)です。私がフィリピンへ移民した動機は、六歳上の次兄(正章)が、大正十四年農業移民として、フィリピンに渡っていました。兄正章は、字西原出身で現地で広大な十地を所有していました、大地主で、新垣福仁さんがいました。その福仁さんの農地を小作し大規模な麻栽培をしていました。その兄を頼って、フイリピンへ行くことにしました。昭和四年(二十四歳)の時でした。兄の下で経営を助けながら働くことにいたしました。マニラ地方には、漁業移民が多く、ラバオ地方には、麻栽培移民がほとんどでした。

移民志向の弟兄
私の弟兄はほとんど移民志向で、長兄(南郎)は、ニューカレドニア(仏領)に移民父母の家経を助けてくれましたが、昭和六年現地で死去しました。三男(盛吉)は昭和六年フィリピンへ移民、戦後一緒に帰国いたしました。五男(盛健)は今大戦で死去しました。妹(トミ)は現在元気で暮らしています。

フィリピンでの麻収穫
私は、高等尋常小学校(現北小学校)を六年で卒業しました。成人するまで、父母を手助けしながら過ごしていました。二十二歳のとき、大阪へ渡り、製瓶工場で一年余勤めていました。当時(昭和一年)この工場で働く工員のほとんどが朝鮮人と沖縄人でした。その後帰沖、フィリピンへ行くことにしました。兄の経営する麻山で初めてみる麻植物は、バナナより一回わり大きく、多葉性で沖縄では、みたことがありませんでした。大正末期から昭和初期にかけてフィリピンには麻製造工場が多く、兄の麻山近くにも日本会社で太田工業社がありほとんどの製品をその会社に出荷していました。麻収穫に当っては、五名一組で行っていました。麻引き(一人)麻倒し(一人)刺作業(三人)計五人の分業制を取っていました。当時の麻栽培業者は大変忙しく、繁盛していました。第二次大戦中は、移民のほとんどが日本軍の指示により、ダバオに引揚げていました。タモガンに収容され、避難をさせられていました。

失敗した同経営
フィリピンでの生活は、当時の沖縄での生活よりは、良かったと思いました。主食の米、野菜類は、どこでも容易に購入することができました。当時、麻価の高騰と景気が良かった事もありました。あの当時の麻山は、聴くところによりますと、バナナ園と獅子園にすっかり変貌しているとのことです。私が戦後一度も、ラバオを訪れていないのは、現地の状況が想像できますので行きたいとは思っていません。リサダ麻山(アバカ)には、大勢の沖縄県人や大里村人がかなり住んでいました。私はフィリピン在住十六年間、一度だって、帰省したことがありませんでした。当時フィリピン国はアメリカ領でしたのでアメリカ人の大地主もいましたそのアメリカ人から、大里出身五名で、借地、麻栽培をしたことがありました。しかしこの場所は、あまりにも痩地で農作物の生長が悪く、共同経営を断念することにいたしました。昭和四年フィリピンへ渡航する船名は忘れましたが、那覇-神戸に渡りましたが、確か直行で渡った記憶があります。当時のお金で四〇〇円(準備費含む)かかったと思います。旅費は母が工面してくれましたので、二年間で倍額返済しました。フィリピン滞在十六年間でしたが、二次大戦に遭遇、裸一貫で帰郷を余儀無くされ、帰郷した、移民の一人です。昭和二十年鹿児島へ上陸、一年余滞在その間、農家の手伝いをしながら過ごしました。二十二年沖縄に帰郷いたしました。四十二才で結婚、四名の子供(男一、女三)に恵まれ、幸せな人生を送っています。
(資料)
昭和四年フィリピン移民字別総出数(含む)(城間(城間清吉)(城問仲仁)(上原堅松)(新垣清孝)(玉城雄助、知念西亀)(島袋繁人)以上六十人、この年最も多くフィリピンへ移民したとされる。
(事務局・我部)

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大分類 テキスト
資料コード 008462
内容コード G000001062-0008
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第230号
ページ 5
年代区分 1990年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 1999/07/01
公開日