私はフィリピン帰国者 宮城西孝(西原)
私の父盛忠は、私が小学校四年生の時(大正十四年)にフィリピンへ農業移民として渡りました。農地は、現地人から借りて、大規模麻栽培経営をしていました。私が二十一歳のとき、フィリピンでの農場を手伝ってもらうため、私を迎えにきました。私は長男ですのでフィリピン行きは大変悩みました。母と祖母は字西原で生活していました。二人に相談しまして、父と一緒にフィリピンへ行くことを決めました。一九三四年(昭和九年)那覇を出航し、-鹿児島-長崎-台湾-マニラーラバオ港の順で経由しました。目的地ラバオに着くのが昭和九年十一月だったと記憶しています。実に四〇日間もかかった事になります。
父の麻農場
現地に着きますと、父が経営する農場は、広大な規模で想像以上の広さに驚きました農場で働く労働者のほとんどは、現地人でした。日本人労働者は、住込み雇用でした。その人たちの炊事一切を私に一任されていました。麻経営の仕事の内容は、管理作業と収穫が主体でした。麻の作業工程は、麻製品を等級毎に分類、分別して、用途毎に一級品(米俵用)二級品(ロープ、縄)特級品(紙幣、衣類)等多岐に使用されていました。農地は現地人との直接、賃貸契約を結び売り上げの一割歩合制で貸与していました。現地には当時、米国系大地主もいましたが、フィリピン人の借地料が安価でありました。
土地騒動
昭和十一年~十二年にかけて、現地で借地法違反事犯がありました。発端は日本領事と現地日系企業による不正違反行為が生じたのです。所謂麻経営者が現地人と借地契約をする場合、領事官を通して行う方法を取るシステムを導入したことでした。農業経営者の自由契約権を奪う策が講じられ、発覚されたものでした。苦境に喘ぐ県出身麻経営者と福岡県出身の会が日本政府へ陳情するという事件でした。当時上原仁太郎(小禄出身)の紹介で伊禮肇(北谷出身)代議士衆議員と漢那憲和両議員(沖縄出身)満州、南洋群島移民推進次官、両高官が現地を訪れ直叙によって解決を見た一種の農民騒動を未然に鎮静し、解決してくれました。お陰で麻経営者は安心して就業することが出来ました。この紛争に対し沖縄県出身者の多勢の移民が支援し、事件の拡大を防止することができました。官僚意識の典型的な表われであったのではないでしょうか。その後その官僚は免職となった。
徴兵と戦争
父盛忠は昭和十二年大規模な麻農場を私に託し沖縄に帰郷いたしました父帰郷後、暫くして妻(ウシ)を迎えました。妻は、若干十七歳の若さでしたので実兄(前城盛良)を伴ってフィリピンまで来てくれました。妻を迎え、麻経営も順調に行っていました。また二人の子供(長男和敏、二男常雄)にも恵まれ幸せな生活をしていました。しかし昭和十六年戦争の危惧がささやかれはじめましたので妻子を最後の引揚船で沖縄に引揚げさせました。けれど、残念なことに去る大戦で妻と二男が犠牲になりました。無念でなりません。その頃私は、現地でマラナ飛行場建設に従事していました。戦争激化の為、砲弾の届かない山中で避難、逃げ回っていました。終戦の報を知りましたのも、現地人からでした。戦後暫らくの間、麻栽培を続けていましたが、引揚げることになりました。昭和二十年十月、ラバオより広島県宇品港に上陸しました。今日まで長年築きあげた財産を失った失望感と傷心で一杯でした。宇品から福岡県春日村(市)内在岡本察で一年弱過ごしました。その間郵便発達外務員として勤務、その後沖縄へ帰郷いたしました。現在字西原部落で、農業と山羊数頭を飼育平穏に暮らしています。
(資料)昭和九年フィリピン移民数二十六人、字別では(新垣カメ)、(照屋正義)、(知念ウシ)、(城間大要)(宮城西孝)(新垣静子)となっています
(移民史事務局・我部)
戦後、フィリピンから引き揚げてきて福岡県春日村にて郵便局に勤めていた当時の貯金通帳と給与明細書
| ダウンロード | https://drive.google.com/file/d/1SyoipYROUigECDKm2CfLg3L2-DNa7lWh/view?usp=drive_link |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 008462 |
| 内容コード | G000001061-0005 |
| 資料群 | 旧大里村広報 |
| 資料グループ | 広報おおざと 第229号 |
| ページ | 5 |
| 年代区分 | 1990年代 |
| キーワード | 役所・役場行政広報 |
| 場所 | 大里 |
| 発行年月日 | 1999/06/01 |
| 公開日 | ー |