なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

大里村史移民編 編集事務局ニュース 移民史証言シリーズ(13)

私はフィリピン帰国者 照屋康三(古堅)
自立のためフィリピンへ
私は父堅保、母ナへの六名兄弟(男三名、女三名)の三男として生まれました。第一尋常高等小学校(現北小学校)を出てから、父の農業を手伝っていました。二十四歳まで父と一緒にいました。私は三男でしたので独立をするため、移民を考えました。移民する前に名古屋に出稼ぎへ行くことにしました。父に相談もせず逃げていったことになります。那覇港に行き、その日で切符を購入し乗船、神戸まで行くことにしました。父には名古屋にいることを葉書で知らせました。暫らく紡績工場で働き沖縄に帰りました。次兄がフィリピンへ渡っておりました。親元で農業を手伝うのは、私一人でした。私が移民の話をすると、父と長男が、お前が移民すると畑は誰が耕作するのかといわれ反対されました。実は私は、アルゼンチンへ行きたかったのでしたが、渡航費が高かったため安いフィリピンにしなさいと父にいわれたのです。フィリピンまでの渡航費は、父が準備してくれました。渡航に関しては、部落出身の与那嶺彦康さんが、移民会社に勤めていましたので、世話をしてくれました。渡航費は、当時百三十円位だったと思います。昭和十一年に二十四歳でフィリピンに渡りました。那覇港から鹿児島に渡り、汽車で長崎に行きました。一週間位、移民収容所に滞在、その間スペイン語の勉強をさせられました。身体検査では淋病検査が厳しかった。輸送船には豪州行きの加茂丸でした。

耕地での生活
ダバオ港に着きましたら兄(康永)が迎えにきていました。兄たちは、ラサン耕地で麻栽培をしていました。私は兄の紹介で、ラサン耕地で人に雇われて働きました。そフには、同郷の四人が働いていました。私がダバオに来て間もなく、兄は麻山を処分して沖縄に帰りました。サンタクルース耕地では、アメリカ人の地主から借地、麻栽培を始めました。小作した場所は、森林の生えた場所でしたので伐採から始めました。切り倒した木を焼き払い、開墾後植付ました。麻が伸びるまでは、炎天下での農作業は暑くて大変でした。麻は植え付け後二ヵ年余で収穫が出来ました。一回植え付けると、側芽が出ますので、何回も植え付ける必要がありませんでした。小作料は四対六の割合で支払いました。一年後昭和十二年には、妻(トシ)を呼び寄せました。昭和十三年長男(好則)が誕生、十五年に長女(京子)が生まれ、十七年に次男(好政)が生まれましたフィリピンでは洗礼をうけますと、二十一歳になりますと土地がもらえるということでした。しかし戦争で引き揚げてきましたので、それも叶いませんでした。ダバオでは、字古堅会がありました。古堅出身の親子づれが、沢山集まっての親睦会を開きました。年一回の旧正月に催される楽しい集いでした。麻栽培は、一人ではできませんでしたので、現地フィリピン人を一日五〇セントで雇っていました。大変良い人たちでした。麻の収穫時期には、早朝四時に起床し、前日に挽いたアバカ(麻)を家の前にある乾燥場で干し、服は麻渋で濃い糊をつけたように堅くなり、黒く染まりました。麻は品質によ当時のフィリピン50セント貨幣って、五段階に等級がつけられ、価格も違っていました。

引き揚げまで
昭和十七年海軍に徴兵されました。兵舎に寝泊りしながら、飛行場作りでした。六ヵ月以上の徴兵生活で麻山はその間殆どほったらかしでした。昭和二十年戦争が激しくなり、ジャングル地帯に避難しました。陸稲も栽培していましたので、山中での生活は食糧には困ることはありませんでした。タモガン山中に撒かれたビラで戦争が終ったことを知りました。タリオン収容所に妻や子供たちと一緒に収容されました。二十日間ほどして、本土に引き揚げることになりましたが、別々な船でしたので、広島で妻子と再会、家族そろって沖縄に帰郷することができました。
(事務局・我部)

ダウンロード https://drive.google.com/file/d/1aLOi4bGBICa5pts2lRFkwXRF75nRUOg6/view?usp=drive_link
大分類 テキスト
資料コード 008462
内容コード G000001060-0005
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第228号
ページ 5
年代区分 1990年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 1999/05/01
公開日