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大里村史移民編 編集事務局ニュース -〇-○移民史証言シリーズ(12)○-○-

私もフィリピン移民です 大城徳一
青年学校の訓練
私は父(蒲)母(カマ)の八人兄弟(男四、女四)の長男として出生いたしました。尋常高等小学校(現大里南小学校)を卒業いたしました。高等科進学については、父の勧めもありましたが勉強に趣味が余りありませんでしたので行きませんでした。その代わり青年学校へ二年間出してもらいました。農家の長男として育てられ、妹や弟たちが多かったので、父母の農業収入では生活の余裕はありませんでした。父母の農業は、キビ作を中心とした複合紹営で家畜は馬二頭、豚数頭を飼育していました。特に父蒲の印象として残るのは、馬の飼育に関しての事です。優良品馬として、県下で表彰されたことがありました。管理技術が素晴らしかったことでした。青年学校では、兵役を終えた元兵隊による訓練が午後一時から五時まで行われていました。訓練場所は現大里南小学校でした。そこには訓練用鉄砲が二〇丁ほど備えられてありまし青年学校は年令毎に区分されていて、徴兵検査直前の者から、順番に訓練が行われていました。また服装(軍服に似た)は団長(目取真出身大城盛保)が準備し団長宅で配布されました。私も一年間訓練を受けました。

フィリピン移民
暫らく父母の農業を手助けしていましたが、妹みねの希望で父からフィリピン移民を勧められました。目取真区からフィリピンへ移民した先輩達の記憶を辿ってみますと、宮城勉(昭和四年)、城間孝一(昭和四年)野原重雄(昭和十一年)、大城眞徳(昭和十三年)その他何人か知っていました。早速那覇市旭町に移民会社がありましたので渡航手続きをいたしました。十八才でした。那覇港から長崎へ渡り香港経由マニラ行きに乗り終着地ミンダナオ島へ約二〇日間かけて到着いたしました。渡航費は、父が親戚の仲里さん(アルゼンチン帰り)から借用したそうです。確か二〇円~三〇円だったと聴いています。

フィリピン体験
フィリピン移民の殆どの皆さんが、最初に体験するのは、麻栽培だと思います。麻は植付後、約三年目から収穫が始まります。収穫適期になりますと、芭蕉の花のように咲き、実はジャガイモのように丸くつきます。トンボ(麻倒し器具)で、刈り倒します。この時期は大変忙しいときです。午前四時から午後九時頃まで、休憩を挟んで働きまーた。楽しみは麻の搾り糟の腐った後に椎茸のような丸形をした自然の味覚が生え、食用に適し大変重宝されていました。

渡航費の返済
フィリピンで働き二年目頃になりますと父から借金の催促が頻繁にありました。一〇ペソ(当時日本円の三倍価)を二回仕送りしました。父母にとっては、私の送金で生活費の足に当てていたのでした。勿論借入金支払ってありました。その後も父からの便りの内容は送金の件ばかりでした。しかし私は、いつまでも労働ばかりする積もりはありませんでした。大農場経営をするためには資金が必要でしたので、送金を断ち、日本銀行に預金することにしました。十九歳でした。昭和十三年頃は、沖縄県人会が組織されていました。私はその頃は若かったので県人会に参加しませんでした。唯大里村人会には、参加していました。村人会は毎年行なわれ、字西原出身、新垣福仁農場だったと覚えています。福仁さんは現地での大農場主で村人から大変尊敬されていました。

現地徴兵
太平洋戦色も深まり、現地徴兵二十五才でした。日銀預金全額を引出し父母に送金しました。現在の一千弗以上と思います。陸軍歩兵隊として二年兵役に服しました。フィリピンは森林地帯が多く戦争中はジャングルで過しました。敗戦は米軍の放送で知り、下山して捕虜となり、約三カ月余収容所暮らしを体験しました。昭和二十一年浦賀に上陸、鹿児島経由で沖縄へ帰郷しました。フィリピンからの送金については弟(盛儀と盛秀)二人が鮮明に覚えていました。二十八才で正子さんと結婚三男二女に恵まれました。経産牛十一頭飼育、活力ある畜産経営をしています。
(事務局・我部)

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大分類 テキスト
資料コード 008462
内容コード G000001058-0006
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第226号
ページ 5
年代区分 1990年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 1999/03/01
公開日