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大里村史移民編 編集事務局ニュース -〇-○移民史証言シリーズ(11)〇-〇-

私はフィリピン生まれ 玉城久江
私は父新垣福仁母カメの二女として、フィリピン(ダバオ)で生れました。父がダバオ洲ダリヨン地区、リサダ耕地で麻栽培をしていました八歳の時(大正一五年)母と叔父(卓造)と一緒に大里へ里帰りをしました。祖父福栄が病気のためと、私の教育のことがあったようです。父が余り教育を受けていなかったことで、子供たちだけは充分な教育を受けさ廿たいという信念を持っていたようです。四月に大里第一小学校(現大里北小学校)へ入学いたしました。母と弟(信雄)三名は祖父母の元で生活しました。小学校を卒業後暫らく母の手伝をしていました。友たちは紡績へ行く女たちも多かったのですが、私は余り行く気にはなりませんでした。母の反対もありました。十八歳の時、同じ村の遠縁にあたる玉城徳順さんと結婚しなさいということでした。当時は、親の言う通り結婚が進められまし主人になる方は、父所有の福仁農場で働いていて私より二歳年上で、幼少のころからの顔見知りでした。

ダバオに渡る
父の呼び寄せということで、渡航することにしました。一九三六年(昭和十一年)十八歳でした。那覇港から鹿児島に渡り汽車で長崎に行き長崎で十日間滞在しました。移民局職員による、英字の勉強を受けました。長崎からシカゴ丸で確か二週間かかったと思いますダバオ港には父が迎えにきてくれました。主人の徳順は、父の家で働いていました。また父の農場で働いている雇用者のほとんどが住込み制になっていました。沖縄出身者が四~五人で現地人が十名余で総勢十四、五名も居ました。私が到着と同時にその夜は、現地式の即結婚式が催されました。翌日からは、父の農場で働く雇用者の炊事係として働きました。父の麻栽培農場はリサダ耕地、カテガン耕地がありました。父は現地語で、ドクミントウ(DOCUMENTO)と呼ばれていました。土地所有権者のことのようです。沖縄県人では、豊見城村出身の赤嶺さんという方と二人と昭和15年頃の大里村人会員の皆さん(写真提供・弟信雄さん)聞いていました。

戦争と避難
主人は昭和十八年に招集されました。昭和二十年には戦争が激しくなりましたので、父と私達家族そして、姉の家族一緒に約三〇名余が避難、逃げ土地所有権証明書(資料提供信雄さん)ている間に生存者は六名になりました。私の子供三名と姉の家族を失いました。戦争の悲惨さと酷さに、怒りと失望感のどん底に落ちこんでしまいました。傷心から救われたのは、病弱な父が収容所で元気になったことでした。昭和二十年十一月に引揚ることになり大分県に一時移され、その後沖縄に帰ることができました。

ドクミントウ(DOCUMENTO)とは
政府発行土地所有権者(土地権利証書保持者)の事で、明治から大正、そして一九四五年(昭和二十五年)施政下にあった頃特別の方が土地の購入ができた。この証明書は父福仁が肌身はなさず持ち帰「た。(二男信雄さん)が大事に保管されていました。
(事務局・我部)

ダウンロード https://drive.google.com/file/d/10h7X8yRTwu97f8a9zchzY_JARtCXXixz/view?usp=drive_link
大分類 テキスト
資料コード 008462
内容コード G000001057-0014
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第225号
ページ 11
年代区分 1990年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 1999/02/01
公開日