虐げられた幼年期 金城信安
私は父宮清、母カマの九名兄弟の六男として育ちました。大正時代は子供の多い家庭のほとんどが子宝貧乏と言われ、両親は養育に困ると食減らしのため、丁稚奉公に出したものでした。沖縄でも辻(ちぢ)売りや糸満売りと称して、親もとを離れて、働きに出される風習があったとされていました。私の家庭も、兄弟が多かったので、十一歳になったとき村内の農家に転々と・盥(タライ)回しにされ、十八歳まで、日雇い同然の虐げられた幼少期をおくりました。当時の子供たちは、遊ぶことはほとんどしませんでした。親の手伝いやらで一日の大半を渦ごしました。私は十八歳のとき、何時までも日雇い生活では、自分があまりにも惨めすぎると思いついたのです。父と何度か何処か行きたいと相談いたしましたが、父は聞いてくれませんでした。私は十七歳の頃、四度目に雇われた主人に山羊と鶏を貰いました。暫らく飼育し、大きく育ちましたので、売りに出したいと父に相談しましたら、全部私が買いましようと云って呉れました。そのときの父の優しさに感動いたしました。父に売ったお金で、日頃から行ってみたいと思っていた那覇へ行くことにしました。那覇へはほとんど行った事がありませんでした。丁度私が小学校のころ担任の先生が言っていた言葉を想い出しました。那覇で道に迷ったり、何か相談事があるときは、人力車挽きに訊きなさいと教えてくれました。その言葉が脳裏にあったのでしようか、早速尋ねてみることにしました。私は(沖縄から外国や本土に出たい)といいますと斡族屋さんに案内してくれました。私は何処でも良いから紹介して欲しいとお願いしましたところ、南洋テニアン島の話しがありました。私は、とび揚がって喜びました。
高鳴る血潮
南洋テニアンがどこにあるかも知らない私はともかくうれしく思いました。しかし、当時、私はまだ未青年でしたので、親の承諾書がなくては外国に行くことは出来ませんでしたそこで親に内緒で役場に行って身分証明書を取り、親の印鑑を黙って押し渡航手続きをしました。当時は、親に内緒で外国に行く青年が多かったと聞いていました。私もその中の一人であったわけです。昭和十五年ごろでしたでしようか、那覇港-鹿児島-門司-横浜と渡り出航直前に父あてに手紙を出しました。当時はサトウキビ収穫労働者募集でした。確か南洋興発(株)会社だったと記憶しています。寄港地が多かったので二週間ほどかかったと思いました。船中には二六〇人ほど乗っていて、そのほとんどが未青年者でした。下船後公民館のような場所に集められ、小作主が高窓から三名単位で呼びつけて、つれて行きました。テニアン島の農業は、キビ作が主で、管理、刺葉刈取り作業が主体でした。渡航費に関しては、給料差引き制度でしたので、半年位で支払いが済みました。テニアン島は雨季と乾季に分かれ、一週間も入浴ができないこともありました。水の少ない島でしたので、このような暮らしから逃げたく、隣接のパラオ島に渡ることにしました。そこでは船乗りとして、客船に勤めました。昭和二七年戦争色が強まり、二一歳に通信隊員として兵役を三年間勤め、終戦をむかえました。戦後帰還し郷里で暫らく生活、青年会長や部落復興に励み、村主催の運動会や青年会による資金造成活動など思い出が沢山あります。
勇気ある行動
終戦後しばらく南洋孤児の問題が話題になった事がありました。私の父宮清の盆弟に当る夫婦が戦死その子供、文雄(六才)行正(四才)の二人が孤児として現地の方に託されている事を知り高額のお金を支払って身分け、沖縄につれて帰り、二〇才になるまで育てました二人とも元気に成人し、ボリビア国へ移民、沖縄第二コロニア移住地で生活しています。二人は私の人生の生甲斐の支えになっています。
| ダウンロード | https://drive.google.com/file/d/1n30vUMT03UK71x9NuA5YjAJ67rM3AO9H/view?usp=drive_link |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 008462 |
| 内容コード | G000001056-0012 |
| 資料群 | 旧大里村広報 |
| 資料グループ | 広報おおざと 第224号 |
| ページ | 9 |
| 年代区分 | 1990年代 |
| キーワード | 役所・役場行政広報 |
| 場所 | 大里 |
| 発行年月日 | 1999/01/01 |
| 公開日 | ー |