なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

大里村史移民編 編集事務局ニュース -〇-○移民史証言シリーズ(7)〇-〇-

『製糖機械技師を夢みて』
大里村出身が初めて海外に進出いたしましたのは一九〇四年(明治三十七年)四月、帝国殖民合資会社業務代理人当山久三の取扱によるマニラ移民百十一人中大里村からはの吉里南寛さん他十人の勇士が初めて馬尼刺(比律賓)諸島に移民したとされています。以来ハワイ、南米、南洋へと発展した経緯があり、出稼ぎを目的とした南洋移民が盛んになりました。南洋移民の方々は苦労して蓄積した資産は第二次大戦に遭い裸一貫で引揚しなければならなかった移民者にとっては屈辱的な心境であったと思います。このように強制的帰還をした大里村民の数は百余名にも上ります。今回はその内の一人城間松助さん南洋トラック島からの引揚げ状況について話して貰いました。私は、一九一三年(大正一年)五月生れで(八十五歳)になります。父(武忠)母(タル)の長男です。私の家庭はキビ作農家で私が十五歳のときに父が他界いたしました。その後は母の手一つで生活を維持しなくてはなりませんでした。キビ作農業が主で当時(昭和二~三年)字当間部落に小さなキビ馬車圧搾工場がありました。その機械は圧搾能力が六五%と能率が大変悪かったことを幼少のころから見て育ちました。私は将来は機械技師になって部落に工場を造りたい夢を抱いていました。私が十九歳になったころ(昭和八年)南洋興発会社の事業として、ポナペ島でタビオカ(澱粉芽)栽培人夫の募集をしていましたのでそれに応募致しました。そのときの渡航費三〇円は母が工面してくれました。私は母の苦労に報いるには機械技師になることを決意しました。昭和八年一月サイパン島へ渡り南洋興発会社入社、同年九月ポナぺ島へ渡り幸安丸の機関士見習として、トラック島に渡り南興水産会社に入社、昭和十六年徴用され、グリニック島に船長として業務を行ったが昭和十八年解除され、トラック島に帰り南興水産製氷所の機関士として従事終戦の昭和二十一年二月沖縄に帰還、当間部落に帰り農業に従事しました。三十三歳に妻ヨシ子と結婚。昭和四十四年当間区に澱粉製造所兼精米所を設立、その後二五屯工場を当間部落と共同製糖場を設立。機械長となり部落経営方式で暫くの間渾営していました。若いころの機械技師の夢がかなえられ、農家の一助となった事は私の人生の中で満足感を松助さんと妻のヨシ子さん持たせてくれました。現在は夫婦そろって区老人クラブ員の皆さんと午後からのゲートボールを楽しんでいます。

ダウンロード https://drive.google.com/file/d/1qNQHI24FtWPE2mCZZA9SUijaY3NhE_jO/view?usp=drive_link
大分類 テキスト
資料コード 008462
内容コード G000001053-0011
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第221号
ページ 7
年代区分 1990年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 1998/09/01
公開日