なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

文化財シリーズ⑫ 大里グスク①

今回から二回に分けて大里グスクについて記して行きたいと思います。まず、今回は大里グスクの位置と環境について説明します。大里グスクは、大里村の東側に延びる丘陵の北端で、西原区に隣接した北側、南風原区の後背地に位置します。北側から西側にかけては急峻な崖状をなし、東側は丘陵縁までゆるやかに傾斜しながら迫地状を形成しています。南側は現西原区(『球陽』によれば七八一年に当地に移動)が位置し、平場を形成しています。大里グスクは崖を背後に堅固な城壁と天然の地形を巧みに取り入れたタイプのグスクであります。グスクからは東側に中城湾を中心に知名岬から与勝半島が一望でき、中城グスク、勝連グスク、佐敷グスクが見られます。北側には首里グスク、弁ケ嶽が位置する首里一帯の丘陵地で、西側は県庁等の那覇市街地を望むことができ、さらにその先の東シナ海上には慶良間諸島や渡名喜島が遠望できます。南側には南部の丘陵地が広がり、大城グスク、糸数グスクが見られる景勝地に位置しています。グスクのある丘陵裾には国場川へと流れる饒波川の源が派生しており、大里村を北東から南西へと横断しています。大里グスクは、別称「島添大里グスク」とも呼ばれ、当主であった島添大里按司によって増改築されたといわれています。島添とは島々を支配する」という意味であり、当時の島添大里按司汪英紫は島尻地域の東四間切(大里・佐敷・知念・玉城、与那原は大里間切)を支配下におくほどの一大勢力を誇った武将であり、自らを「下の世の主」と称していたといわれています。また、盛んに明(中国王朝)との朝貢貿易を行っていたことが『明実録』に記されており、その権勢の一旦がうかがえます。しかし、当時佐敷グスクに居城し、佐敷一帯を治めて徐々に勢力を拡大しつつあった琉球王朝創設者の佐敷小按司尚巴志によって攻略され、島添大里按司は落城します。その後は、尚円志の三山統一の拠点のグスクとなり、中山を征討した後に首里グスクへ移転するまでの間居城していたといわれています。その後は琉球王朝の支城として使われたようで、尚泰久王代に作られたといわれる「雲板」がグスク内からみつかっています。

ダウンロード https://drive.google.com/file/d/1nlyI8OG9Yn3UaKinI1m9Dw9zO2KpRie5/view?usp=drive_link
大分類 テキスト
資料コード 008462
内容コード G000001052-0008
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第220号
ページ 4
年代区分 1990年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 1998/08/01
公開日