なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

-〇-○移民史証言シリーズ⑤〇-〇-

私は明治四四年生まれで、今年で八七歳になります。父(玉城南呂さん)が初期(明治三四年頃)のハワイ移民者で、私はハワイ生まれ二世です。父が移民を決意するには当時の※当山久三さんに続けという風潮があったからでしょう。父は首里高校を卒業後働いていましたが、七人兄弟では沖縄にいてもずっと貧乏だと思ったんでしょうね。(※移民の父と言われた開拓者父と母(玉城カメさん)は親同士の決めた結婚ですが、父は母を呼び寄せる際、ハジチはするなと命じたそうですよ。母はハジチをすると友が重箱を作って祝ってくれることから逆にうらやましかったようですが、当時はそれにまつわる苦労が多くありましたよ。兄弟は長兄、次兄、私の三名でしたが、次兄は三歳の頃風邪が原因で亡くなりました。父も私が十三歳の時、盲腸が元でなくなりました。肺炎を併発してですが、当時は盲腸は大病だったんです。父はその時四四歳でした。私は尋常高等小学校一年を終えた頃ですが沖縄から戻ってくるように言われ、家族三名引き揚げて来た訳です。兄は進学の夢が絶たれ大変つらかったはずです。私は帰国後は今の北小学校に編入し、補習科で裁縫や機織りを学びました。二五歳に、夫の呼び寄せでフィリピンへ渡りました。ちょうど正月の頃でしたよ。夫は主に麻栽培に従事し、現地人を人夫として雇っていましたので、私は主に家庭で炊事をしていました。子供も六人できましたが、戦争の色が日増しに濃くなり、兵隊にとられていた主人は最初の空襲でやられました。忘れもしない、昭和十九年の九月一日のことです。ダバオのブナワン飛行場でした。その後はもう戦争一色で、夫の死から一週間ほどはぼう然と過ごしましたが、子供六名を守るんだという一念で、我に返り必死で山の中を逃げ回りましたその内、長男を栄養失調で亡くした時は言葉に出来ないつらい思いでしたよ。当時次男は生後十ケ月だったんですが、この子が泣くと、日本兵が二名、「殺してしまいなさい」と言うんですよ。この子を殺されてなるものかと必死で守り抜きましたね。戦争は本当に恐ろしいものです。本当にイヤですよ。沖縄に引き揚げて来て、ハワイで身につけた英語が生活を救ってくれました。米軍の図書館の職を得、生計を立ててきました。戦争の記憶の消えない移民生活でしたが、平和な世の中であって欲しいです。玉城カメ子さん

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大分類 テキスト
資料コード 008462
内容コード G000001050-0009
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第218号
ページ 5
年代区分 1990年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 1998/06/01
公開日