なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

大里村史移民編 編集事務局ニュース⑥

一月十九日、編集事務局は沖縄産業開発青年隊」を訪問しました。東村の素晴らしい自然環境の中に位置する同青年隊からは東海岸の景色が美しく眺望でき、同行した与那原町移民史編集事務局のスタッフ共々感動のひとときを過ごしました。又、設立当初の様子など現理事長の永山研二氏より詳しく取材することができました。我が村出身の瑞慶覧長仁氏が創設者であることはつとに有名ですが、「戦後の荒廃の中、青年達の心がすさんで行くのを感じ、彼らの心に、勇気と将来に対する希望を持たせたいと熱望した瑞慶覧長仁氏の働きは本当に素晴らしいものでした。資金集めから移民先の仕事の世話まで骨身を削っておられた姿は、尊敬の一言です」そのように語られた現理事長永山氏の言葉に改めて瑞慶覧長仁氏の業績の素晴しさを感じました。

-〇-○移民史証言シリーズ(5)〇-〇-
新垣栄孝さん
私は大里村からロタ島に渡った数少ない移民者の一人ですが、六歳の時(昭和二年)、先に渡っていた父の呼寄せで、当時小学校一年だった兄、母と共に移民しました。当初はテニアン島でキビ作業に従事していたんですが、昭和十七年、戦争の色が濃くなる中、畑は飛行場建設のため日本軍に強制的に奪われました。テニアンから更に南のロタ島に移りパパイヤ栽培を始めました。パパイヤの木をカミソリで切りその汁を煮詰めて苛性ソーダを採る作業ですが、夜明け前にしか採れないので、また暗がりから起きて、子供であっても一人前の労働者として働きました。登校する前にたっぷり働いたものですよ。昭和十九年、十六歳になっていた私は、ロタ島の飛行場建設現場で、伝令役として日本軍に雇われました。その時初めて見た空襲は今でも脳裏に焼き付いています。伝令の仕事の合間に山に食糧(バナナやかたつむりを食した)を調達に行ったんですが、その一瞬に空襲があり九死に一生を得た訳です無断で行き伝令役を怠った事から罰せられ、一晩中死体の番をさせられました。本当に恐怖でした。米軍は物量、情報量などあらゆる面で日本軍と比較できない程上回っていたのですが、中でも、日本軍の食料船は港に入る前に撃沈されるので日本軍側の食糧難は悲惨を極めていました。みじめの一言です。移民すなわち戦争一色のようですが、現地で学んだ高等小学校までの思い出も、かけがえのないものです。引き揚げ船第号で戻って来ました。故郷沖縄に戻り稲嶺の地で現在に至っています。

36年振りにブラジルから一時帰国した新垣竹志さんが、再び花開いた友情の輪
十二歳で家族と共にブラジルに移民し、実に三十六年ぶりに一時帰国した新垣竹志さんですが、彼の半生と再び花開いた友情の輪を御紹介します。「私が十二歳で故郷を離れブラジルに渡ることになった時は、何故愛する沖縄を捨て遠くブラジルなんかへ行くのかと泣きました。住み慣れた稲嶺の家、愛する友人達、大好きな先生、別れは子供心に本当につらく悲しいものでした。しかし、いったんブラジルに戻ってからは心を切り替え、『沖縄のために何かやってやる!』と堅く決心し人の三倍の努力と根性で頑張りました。移民国家ブラジルでは、金を稼ぐかエリート職に就くかの二つに一つです。郷に入らば郷に従えの精神で働き抜き移動市場の野菜売りなど、コツコツと商売を広げ不動産も手に入れて来ました。ここまでなれたのは片時も忘れたことのない故郷沖縄や親友達、大好きだった先生にきっといつかは会うと心の励みにしたからですよ。舞二の親友だった玉城恒夫さんは、彼の帰国を大里南小学校の同級生と共に歓迎し当時に劣らぬ記憶力の素晴しさや明るさに同級生一同感動の時を過ごしたと伝えて下さいました。

ダウンロード https://drive.google.com/file/d/1BMW4ijulRCuPRLUsZ6Ov1yh3axNXdf-V/view?usp=drive_link
大分類 テキスト
資料コード 008462
内容コード G000001047-0004
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第215号
ページ 7
年代区分 1990年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 1998/03/01
公開日 2026/03/27