移民史編集事務局は現在、海外帰国者実態調査として帰国者からの聞き取り調査の準備に入っています。実際の調査は移民史編集専門委員の方々により行われます。写真でご紹介いたします。又、大里村の状況を把握する目的で、十一月一日には大里まつりの視察、並びに村内巡視も予定しています。
-〇-○移民史証言シリーズ(3)〇-〇-
移民体験も時代背景や移民先等で様々ですが、今回はアルゼンチンへ花嫁移民として渡られ、現在御主人と共に大里に帰っている又吉初子さんに御登場いただきました。又吉初子さんが字平良から花嫁として海を渡ったのが三十一年前のこと。アルゼンチンで二十一年を過ごし故郷のお母様の看病のため帰国されました。アルゼンチン移民を多く出していることで有名な字平良ですが、初子さんと夫光彦さん(共に五十九歳)は公民館のすぐ側にお住まいです。二人共平良の出身ですが、光彦さんはアルゼンチン生まれの二世です。移民先で母親が亡くなり、戦争直前に一時帰国して来ています。戦時中は幼なじみの初子さん家族と熊本へ三ケ年疎開しました。二人が六歳ぐらいのことです。経済的に発展していたアルゼンチンの生活しか知らない光彦さんの子供らしい愉快なエピソードに「アルゼンチンのトイレは水洗で、顔も洗えるぐらいきれいだよ」と言ったそうです。戦後、暫くして光彦さんはアルゼンチンへ帰ってしまーましたが、初子さんの移民に対する興味は続きます。戦後の窮乏生活の中アルゼンチンから救援物資が届いた事実がありますが、初子さんは「はっきり記憶していますよ。昭和二十三年頃、馬車に山と積まれた物資が届いたんですよ。食用油やそうめんとかでした。当時はモービルオイルで天ぷらを揚げていたんですから皆で大喜びしましたよ。『アルゼンチンから物資が来たよ!』と大はしゃぎでしたよと言います。平良同志会がお金を集めて救援活動に奔走した事を知り感動を覚えたそうです。知念高校を卒業し、勤めをしながら二十八歳で幼なじみの光彦さんの元へ嫁いで行かれました。「不安も少々、しかし期待に胸ふくらませてオランダ船テゲルベルグ号で那覇港から旅立ちました。冬の二月のこと、祖母の『これで生き別れかね』という言葉に心乱れ悲しかったです」現地に着いての生活の様子を語りながら、「苦労はなかったんですよ。主人の仕事(ブエノスアイレスから汽車で三十分程の町でクリーニング業を経営)は軌道に乗っていましたし、身内の助けもあって生活はしやすかったですよ。それに日系人の評価は大変高かったんですよ。まじめで優秀で良い人だという評判ですね」アルゼンチン人相手の商売は言葉が通じず、手真似、足真似で必死だったと笑いながらおっしゃいました。一番楽しかった思い出は県人会の運動会ですね。唯一の楽しみと言っていいと思いますよ。バーベキューをしたりお弁当を持ち寄ったり、部落の人に会えるのが何より嬉しかったですよ」苦労はなかったと言いますが、「やはり母親として、子供の急な病気の時などは本当に泣きたい思いをしました。学校の集まりでも言葉が分からずただニコニコするだけのみじめな思いも幾たびでした。教育に関しては本当に苦労と努力を重ねました。でも三名の娘たちが成績優秀者の特待生扱いを受けたことで私の苦労は報われたと思います。現在長女のパトリシアさん(二十八歳)は琉大に語学講師として勤めています。次女カリーナさん(二十六才)と三女ロクサーナさん(二十二歳)もそれぞれアルゼンチン、ドイツの大学で勉強に励んでいます。娘さん達の結婚問題に心揺れる初子さんですが、ご夫妻が築いて来た温かい家庭を見る限りきっと各々に素晴らしい人生を歩むことと思います。貴重なお話を有難うございました。
| ダウンロード | https://drive.google.com/file/d/1uCBvhfmE-sQDsHpA3wb25LaiTwGDjTfu/view?usp=drive_link |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 008462 |
| 内容コード | G000001044-0007 |
| 資料群 | 旧大里村広報 |
| 資料グループ | 広報おおざと 第212号 |
| ページ | 5 |
| 年代区分 | 1990年代 |
| キーワード | 役所・役場行政広報 |
| 場所 | 大里 |
| 発行年月日 | 1997/11/01 |
| 公開日 | 2026/03/27 |