なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

大里村の 沿革と現況

大里村はその名の示すように大きい村で、大正初期には人口一、五〇〇人を数える。島尻郡第二の大村であった。「大里」という名称については、古くは「おほさと」と称んでいたようである。
今から五八五年前の一三九二年に察度王の要請により、中国より三六姓が帰化した。この三六姓は中国交通と航海儀礼、通訳等を円滑に運ばしめるために、派遺されたもので、その子第は、廃藩置県のときまで、那覇の久米町に集団居住し主として中国関係の官職につき、王府から特別の保護を受けた。
かれらが文筆のことに任じてから、仮名文が漢文に変り地名、人名もまた漢文に書き変えられるようになった。
漢字が日本に輸入された頃は、単に言葉の記号としての役割しか果してなかったため地名の「おほさと」もその宛字として尚徳王の時代までは「阿蒲察度」「阿普察度」「務布察度」「阿布薩都」「島普察度」「王察度」等の漢字が宛られていた。
現在つかわれている「大里村」の地名は、今から約三〇八年前の一六六九年(尚貞一年)の羽地仕置によって、できたものとされている。それまでは、現在の大里村を「島添大里」とよび、旧高嶺村(現在の糸満市大里)を「島尻大里」とよんでいた。

行政区のうつり変り
①当初の大里間切は次の二ケ字からなっていた。
新里、小谷、津波古、南風原、真境名、湧稲国、神里、平川、高宮城、古堅、島袋、嶺井、与那原、大見武、西原、板良敷、仲程、平良、稲嶺、当間、上与那原、与那覇、南津波古、上津波古、であった。
②一七三七年に再編があって、新里、小谷、津波古の三字を佐敷間切へ出し、神里は南風原間切へ出し、与那覇、宮城を南風原、宮城を南風原間切より入れて、前の宮城を高宮城と改め平川と合し、稲福、大城、目取真を玉城間切より入れ、真壁を当間に合し与那覇、南津波古、上津波古を発し、次いで宮城も廃した。
③明治三十六年(一九三〇年)大字制となる。大里、古堅、嶺井、仲間、高平、稲嶺、大城、与那原、上与那原、板良敷。
④昭和二十四年四月一日与那原分町、与那原、上与那原与原、大見武、当添、板良敷の六ヶ字が分離し与那原町なった。
与那原の分離に伴い人口七一三七人の純農村となり、今ではさとうきびを主幹作物として畜産、野菜生産も盛んになっている。
本村は、産業、人口、集中都市に近い関係から、昭和四十八年~五十二年までに稲嶺伊久田原と嶺井新垣原に団地造成なされ、行政区数も二〇ケ部落になり、とくに稲嶺十字路附近での発展が著しく、昭和五三年十月未日の人口も総人口八二九四人(男、四一七八人、女四一一六人)、世帯数も一八五一戸となっている。

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大分類 テキスト
資料コード 008459
内容コード G000000867-0002
資料群 旧大里村広報
資料グループ 広報おおざと 第35号
ページ 2
年代区分 1970年代
キーワード 役所・役場行政広報
場所 大里
発行年月日 1978/11/20
公開日