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津波古平良川原遺跡

平成十三年度に多和田殿近辺で平良川原遺跡の一部調査を行いました。今回はこの発掘調査をもとにした津波古の歴史話を紹介します。

▼伝承について
津波古のムラつくりのはじめとして「四元(ユムゥト)」と総称される多和田殿、喜屋武久殿、外間殿、大松当殿の各殿について、伝承を参考にして把握できる年代は、若干ではありますが、多和田殿の伝承が早いことがわかります。

多和田殿の伝承とは、多和田子の祖先が浦添城主察度王(一三二一年~一三九六年)から島添大里の港の監督官的役割を命じられてきたという話(十四世紀中頃から後半か?)。

喜屋武久殿・外間殿は尚巴志が北山を攻め滅ぼした(一四〇六年)ときに捕虜としてつれてこられたという話(十五世紀初め)。

▼発掘調査について
平良川原遺跡からは、二つの文化層(遺物包含層)が確認されました。一つは年代が十一世紀~十三世紀ごろと考えられる層で、滑石製石鍋(長崎産)をまねて作ったグスク土器の鍋片(図1)と類須恵器(徳之島産)の壺片(図2)が見つかっています。もうひとつは年代が十七世紀以降の層で、壺屋(現在の那覇市壺屋の窯で焼かれた)の施釉陶器が出土しています。

四元の伝承から示される年代と遺跡の調査で判断される遺跡の年代とを比較すると、平良川原遺跡の年代が早いことがわかります。このことから、四元以前から人々の生活活動があったと考えられます。

ここで疑問を二つ。皆さんならどう考えますか?

①町内で人々はいつ頃から生活していたのか?
②四元が津波古のムラつくりをしたというのはどういうことか?

①についてですが、
現在のところ佐敷町内において一番古い遺跡は、平良川原遺跡と下代原遺跡の二つの遺跡で、ともに十一世紀頃~十三世紀頃から始まります。

しかし、津波古に隣接する大里西原にある大里グスク周辺においては、縄文時代中期頃(紀元前四千年以降)の生活痕跡がみつかっているため、津波古においても縄文時代中期頃から人々が生活していた可能性があります。

②についてですが、
「ムラをつくる」というのは、はじめてその地域に移り住んだという意味ではないと思われます。横つながりの共同体ではなく、ムラを治める長がいて、その片腕となる人物がいて、集落の人々の農耕や祭祀などをまとめ、執り行う組織作りをした、階級が生じたという意味合いではないでしょうか?

調査の結果だけではなく、周辺に点在する文化財の伝承や他町村の状況を材料に、文字に残っていない歴史話をしてみました。

ダウンロード https://drive.google.com/file/d/1gM-N-Yk8kRUEFMxIRcf6bfy0so3fs9t9/view?usp=drive_link
大分類 テキスト
資料コード 008458
内容コード G000000826-0015
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第334号(2005年5月)
ページ 6
年代区分 2000年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 2005/05/10
公開日 2025/01/20