子ども達や主婦らが日頃考えていることを訴える佐敷町少年・婦人の主張大会(町青少年育成町民会議・町婦人会主催)が七月三一日、佐敷町文化センターシュガーホールで開かれました。
少年の部には、小中学生一一人、婦人の部には、三人が参加。訪れた人は熱心に聞き入っていました。
中学生は、自分の生活態度や環境問題などを、婦人の部は、人間の生命をテーマに取り上げた発表者が見られました。
審査結果、少年の部では、伊良波亜沙佳さんが、婦人の部には、仲間光枝さんがそれぞれ、最優秀賞に選ばれました。
少年の部 最優秀賞 熱中できるもの、それは
佐敷中3年 伊良波亜沙佳さん
希望に胸を膨らませながら、校門をくぐったあの日、私には楽しい生活が待っているものとばかり思っていました。勉強と部活を両立させようと必死に頑張っていました。でも頑張っている事がだんだん辛くなってきて、部活も行かなくなってしまい、勉強も全くしなくなりました。その頃にはもう、夢も希望もありませんでした。だからその時の私は親や先生方に反発ばかりして、髪も染め、眉もそり、スカートも短かくし、何度指導されたことでしょう。そんな生活を続けていた私ですが、選択教科、音楽の三味線コースをとったことをきっかけに、本格的に三味線を習うことになりました。習ってみると、どんどん楽しくなってきて、自分でもびっくりするくらい、あっという間に上達しました。
三味線を習ってしばらくすると、私の中に「また琉舞がしたい」という思いがあふれてきました。小さい頃に始めた琉舞。踊ることが大好きだった私は、すぐに琉舞に夢中になりました。でも、中学生になると同時に頑張ることを辛くなっていた私は、練習に行かなくなってしまったのです。しかし、テレビやラジオから民謡の曲が流れる度に私の体はウズウズして、今すぐにでも踊りだしたい気持ちでした。一度は行かなくなってしまった琉舞。本当に続けていけるか、とても心配でしたが、再び始めてみると、今までの不安が嘘のように無くなりました。そして私には目標ができました。その頃、私達の琉舞練場だけで行われるコンクールを受けることにしました。毎週二回ある稽古には必ず行き、月に三、四回ある家元稽古にもずっと参加しました。しかし、思っていたより踊りは難しく、上手くできなくて、何度も何度も嫌になって、イライラして、その度に母に八つ当たりをしました。そんな私に母は、「今はどんなに辛くても、これを乗り越えれば、きっといい事がある。あすかならできる。だから、頑張りなさい」と私に励ましの言葉をかけてくれました。また、大切な友達も応援してくれたおかげで、私は中二という最年少でみごと新人賞をとることができたのです。
今度は三味線の新人賞をとりたいと思うようになり、練習のときには真剣に取り組み、家に帰ってもいつもより練習をしました。そして、琉舞に続き、新人賞をとることができました。私は勉強やスポーツができるわけでもなく、それに、弱気な部分もあり、そのせいですぐに落ちこんでしまいます。「こんな自分。何のとりえもないただの人間だ」とずっと思っていました。私には何ができるんだろうと、自分自身にずっと問いかけてきました。
でも、この二つの新人賞をとったことで私は、自分にできること、自分を伸ばすことができるものを見つけることができました。ハッキリとはわからないのですが、私自身の中で、何かが変わったと思います。新人賞という大きな成果を得たことによって、自分には何ができるのか。自分は何をすべきかなど、自分自身の中で見つけることができたのです。
反発ばかりしていた私は、その頃から、親の言うことも素直に受け入れ、先生方からも指導されなくなり、逆に、「あすか変わったね。」「本当に成長したね。」と言われるようになりました。その時初めて、自分が変わったことに気付きました。いろいろな人からほめられると、とても嬉しくて、次も頑張ろうと前向きに考えるようになりました。
みなさんは悩んでいませんか。落ちんでいませんか。でも、そこで逃げてはいけません。逃げるということは自分自身の弱さに負けることです。苦手なものがあれば、少しずつ克服していけばいい、嫌なことから決して逃げてはいけない。そこで立ち止まってはいけない。前に進んでいかなければいけないのです。
今私は、琉舞と三味線の優秀賞をとることを目標に毎日練習に励んでいます。一つでも熱中できるものがあるときの自分は、とても輝いています。頑張った結果が良い形として表すことができれば、なおさら自分に自信がつき、上を目指そうとさらに輝きます。みなさんも熱中できるもの、頑張れるものを見つけ、自分自身を磨き、光り輝かせてください。
婦人の部 最優秀賞 「生きている」という事について
仲間光枝さん
人間が生きていくうえで、一番大切なものが何なのかという事について、私が、自分の体験から得た考えをお話したいと思います。皆さんが「ああ、生きているんだなぁ」と実感するときってどんなときですか?美味しいものを食べているとき?フルマラソンを完走したとき?病気が快復したとき?自分の内側に意識を集中させて、少しの間考えてみてください。
ほとんどの人は、今、自分がこうして「生きている」という事が、どんなに素晴らしく、たくさんの幸運によって守られている結果であるという事を自覚していないと思います。生きている、ということ以前に、生まれてきた奇跡を、もうすでにもらって、私たちは今地球(ここに)います。
数年前、高校の部活で一緒だった友人がひょっこりと私の職場を訪ねてきました。卒業以来会っていなかったと思うので、二十数年ぶりの再会でした。事業を成功させていた彼は、自慢気に、そしてとても楽しそうに、今後の事業展開や夢についておおいに語り、帰っていきました。その数日後、新聞に彼の死亡広告が載りました。私を訪ねてきた日の二日後、東京での商談のため宿泊していたホテルで、突然死したというのです。言葉がありませんでした。彼の自信に満ちた姿が、生々しく記憶に残っていただけに、俄には信じられない出来事でした。
私が、その時実感した事は、「人生の終わりは自分で決めることができない」という事でした。彼が描いていた、彼自身の輝かしい未来は、彼が死んだ事で全てが消えてなくなりました。誰かが事業を継承して、その中で彼の形跡は残せたのかもしれませんが、もはや、彼のものではありません。数日前には、それこそ「俺は生きているんだ!」と言わんばかりの、エネルギーに満ち溢れていた人間が、夢を叶えるはずの土地で孤独死するなんて、運命とは、なんて残酷なものかとも思いました。この事は、自分がこうして生きている事も、実に危なっかしい、不確実なものかもしれない、と思うきっかけとなりました。自分が今日も、今も、こうして生きているという事は、もしかしたら死んでいたかもしれないというたくさんの危険を、運良く回避しているだけであり、「生きているのは当たり前の事ではない」という悟りのようなものでした。私たちは自分の意志だけで生きているのではないのです。実のところ、「生かされている」と言ったほうが正しいと思うようになりました。
今、この日本で起こっていることがまさに、その事を物語っているように感じます。平和だと言われるこの国で、虐待や暴力事件、それも、耳を塞ぎたくなるような凶悪、残酷な事件が毎日のように報道されます。戦争が起きているわけでもないのに、たくさんの人が死んでいくのはどうした事でしょう。交通事故者より自殺者の数が上回ったと聞きました。自殺した人は、自ら、自分の人生に決着をつけたように思いがちですが、私はそんなふうには思えません。勿論、その人が死を選んだのは、その人自身の選択だったに違いありませんが、その事を決定づける要因とか、きっかけは、本人以外のところにあったはずだと思うのです。死んだのではなく、悲しいかな“生かされなかった”という気がするのは私だけでしょうか。命というものが、あまりにも、軽く扱われるようになったという気がするのは私だけでしょうか。命というものが、あまりにも軽く扱われるようになったと感じるのは誰もが一緒だと思います。実のわが子を平気で虐待死させる親。年老いた親を餓死させる子ども。悪口を言った友達に、刃物を向ける小学生。ストーカーした挙句、自分のものにならないからと言って、相手を殺すしかないと考える人たち。ここで、例をいちいち挙げなくても、荒んでしまった人間の心に、愕然となる事件は数しれません。沖縄には「命どぅ宝」という、命の尊さを見事に表現する言葉がありますが、命ある者ならば、言わなくてもわかるはずの事を、“声を大にして叫びたい”衝動に駆られる事が多すぎるこの現実は、どうかしているとしか言い様がありません。他者の命を軽く扱う人は、大方、親や生い立ちに問題があるとか、育った環境が劣悪だったとか言われます。が、必ずしもそうでない場合もあって、因果関係を特定づけるのは、なかなか難しい事のように思えます。
専門家ではないので、詳しい事はわかりませんが、人の心は、ほんとうに繊細で複雑である事、傷つきやすく、壊れやすいものである事を、察する事はできます。それにしても、逆境の中、人間愛に満ち溢れて生きる人もいれば、些細な事で他者を攻撃する対象にする人もいる。その違いは一体どこにあるのでしょう?私はそれが「自分は生きている」という実感を持って生きている人と、そうでない人の違いなのではないかと思えるのです。「生きている」と感じることは、自分の生命を実感する事であり、それは同時に、自分を含め、生命あるものに愛着を持つ事だと思うのです。笑ったり、泣いたり、怒ったりと、“感情”を持ち、美味しかったり、痛がったり、心地良かったりと“感覚”を持ち、感動したり、傷ついたり、夢を描いたりと“感性”を持つ、「人間らしい心」をきちんと育んでこれた人は、きっと「自分」が「人間」が、大好きであるはずだと思うのです。
私が、このようなテーマを選んだもうひとつの理由に、大勢の人の支えがあって“生かされた”小さき者の存在があります。それは、五月で二歳を迎えた初孫の事です。母親である私の娘は、十五歳でその子を産みました。その事について、お話すると時間がいくらあっても足りないくらい、たくさんの出来事や思いがあります。腰痛のために整形外科を受診した際、レントゲンに胎児が写っていたという事で、初めて、娘が妊娠していたことを知りました。本人が無知過ぎたのか、親が馬鹿なのか、なんと七ヶ月になるまで、その事に気付かずにいました。生むか、生まないかなんて選択の余地などありません。あと、三ヶ月もすれば、誕生してくる命がそこにはありました。私は、「娘さんの事で話しがある」と病院から呼び出しを受けた時、娘が何か重篤な病気に侵されたのではないかと、そればかりが心配で、医者の説明を待っていました。そんな思いで身構えていたせいか、妊娠していると聞いても、さほど、うろたえる事はなかったように思います。あれから二年半経ち、六人家族となった我が家は、じぃじー以外はみな女という、以前にも増して賑やかな状態となりました。小さい子がいるだけで、家の中に笑いが絶えず、その子を中心に家族の絆がいっそう深まったと感じています。娘は、昨年受験し直して高校へ入学し、子育てをしながら、学生生活を両立させています。
私はこう思うのです。この子は生まれるべくして生まれてきたんだなと。気付くのが、もっと早い時期だったなら、こうして、可愛い笑顔に癒されたり、「ばぁばー」と呼ぶ声に「なあに?」と応える事はなかったかもしれない。「娘の将来を考えて・・・」なんて、もっともらしい、都合のいい理由を盾に、別の選択をしていなかったとは言いきれない。妊娠をしている事も知らずに、無防備な生活をしていた状況を考えると、今までは、私たち家族にとってなくてはならない存在となったのです。その小さくて大きい存在に愛情が深まれば深まるほどに、「生命」の尊さとか愛おしさを、あらたて実感し、自分が、こうして生かされている事への感謝を日々忘れないでいたいと、つよく思うのです。
奇しくも三年前、同じこの壇上で、中学校代表として意見発表する機会を与えられた娘は、「幼児虐待について」という題で意見を述べ、最後にこう結んでいます。
「私もいつか結婚をし、子どもを産んで母親になる日がくると思います。そのときは、たくさんの愛情を注いで、精一杯育てていきたいと思っています」
娘のした事は、たくさんの人に迷惑や心配をかけました。その事については、今でも申し訳ない気持ちでいっぱいです。それでも、私たち家族が、今、こうして、幸せな気持ちで生きていられるのは、娘のした事がもたらした結果とも言えるのです。そう思えば、いろいろあった事さえ感謝に変わり、「生きているって、素晴らしいなあ!」とつくづく感じるのです。
ダウンロード | https://drive.google.com/file/d/1Od4CK8GAd3IxlP_gaMKzgHJ4dVPpAamP/view?usp=drive_link |
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008457 |
内容コード | G000000814-0018 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第326号(2004年9月) |
ページ | 6-7 |
年代区分 | 2000年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 2004/09/10 |
公開日 | 2025/01/20 |