なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

シュガーホールの十年 中村透

作曲家・舞台芸術作家、あるいは地域と音楽文化の研究者としての経験からか、開館時に乞われてシュガーホールのサポーターとなり今日に至った。正直いって当初、佐敷町でのホール建設にはかなり醒めた気分を持っていた。九十年代初め、開館後の運営に確たる理念をもたずに本土で次々に誕生した文化施設が、財政的・人材的な限界から頓挫し、新たな「箱物行政」と揶揄されるシーンを幾度も目撃していたからだ。
救いは、佐敷町にはこうした各地の情勢に通じた役場職員と町民が少なからずいたことであり、そのリスクを超えて「町づくり」の新たな拠点にしたいという悲愴なまでの決意があったことであろう。
町づくり、人つなぎの活動拠点としてホールの企画運営は出発し、軌道修正を繰り返しながらも常に五年先・十年先を視野に入れた歩みであった。イベントに際しての危機的なシーンには、いわば定住型農業地域の人たちの粘り腰に幾度も救われたものである。

拡散された生活圏に散るおとなと、学校や塾に囲まれた子どもたちを地域へ呼び返し、いっしょに汗をかく場をつくる。言い換えれば、世代をこえた身体の協働と豊かな対話による創造を、素人なりにコツコツと時間をかけて手作りする。四年に一回の町民ミュージカルはこのことを目標に誕生した。その継続的ないとなみはいま、若者エイサー隊、町民劇団とコーラス活動、子どものためのミュージッキング広場、あるいはさまざまな文化サークルの活動となって定着している。

人口一万二千人の町で、同じ顔ばかりみていてもつまらない。海外から来るすぐれた音楽家は、単に外国人であるだけでなく、深い精神性に根ざした身わざの持ち主である。ステージ演奏をただ遠くから眺めてお帰りいただく、つまりホスピタリティーという名のサービスで「旅人を喜ばして返す」ほど裕福ではないのだから、その招き人の技なり異文化スピリットの味を学校で児童館で膝付きあわせながら充分に体感したい。アウト・リーチという名の出前コンサートである。佐敷の子どもたちは、佐敷を出なくても海外の人物や文化に五感で触れ、異国への親しみと夢をもつようになったのではないだろうか。子どものもつ無限の可能性への投資である。
新人演奏会オーディションは、沖縄電力と県内マス・メディアの強力な支援をえて三人四脚で十年間ひた走ってきた。いつか佐敷からグランプリ受賞者が出て欲しい、というさもしい本音はさておき、いま世界各地で活躍する受賞アーティストたちは、そのスタートとなった佐敷や沖縄を決して忘れることはないだろう。消費的通過観光地オキナワではなく、生み育てのふるさと、母なる沖縄イメージのグローバル化である。

今後は町村合併も視野に入れ、より広いコミュニティー・アイデンティティーをどのように探ってゆくか。あるいは、文化施策の策定過程への積極的な市民参加を得てより開かれた文化行政にするには、などの課題も多くある。しかし、ウージ畑にずっしりと腰のすわったホールを日々眺めながら町民とともに歩いてきたフットワークで誇りたいことがある。それは、人と音楽との関係をいつもその根源から見据えてきたこと。市場化された音楽産業の構造とは常に一定の距離を保ち、消費的音楽の幻影にながされることなく、足元を掘りおこしながら歩んできたことだ。(琉球大学教授・シュガーホール芸術監督)

ダウンロード https://drive.google.com/file/d/1K4e6l3zAWHFcXuw2OkOJJCi9HDY5-T4E/view?usp=drive_link
大分類 テキスト
資料コード 008457
内容コード G000000813-0015
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第325号(2004年8月)
ページ 6
年代区分 2000年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 2004/08/10
公開日 2025/01/20