なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史移民編聞き取り調査

「私たち夫婦は小学校ぐらいの学問しかなかったので、子どもたちには、できるだけ大学まで行かせたいと思いました。」

ブラジル・カンポグランデ在住 城間静子さん(69才)
世界のウチナーンチュ大会を機に、久しぶりにブラジルから帰ってきました。三度目の帰国ですが、何度きても故郷はなつかしさがいっぱいです。
私は1932年(昭和7)4月、父伊礼青三郎と母ウトの四女として字津波古で生まれました。きょうだいは二男六女の8人でしたが、男2人は亡くなりました。
沖縄戦の前、ちょうど私が国民学校六年の夏、私の家族は父を残して宮崎県の佐土原町に疎閘しました。産後間もなかった母は病気がちで何もできず、食糧を得るために姉や私が農家の手伝いに行き、何とか飢えをしのいでいました。それで、疎開先での二年間は学校どころではなかったのです。
終戦後引揚げてきたとき、本来なら私は高等科二年(いまの中学二年)でした。焼け跡のバラック建ての教室では、学校も始まっていましたが、私は戦後の中学には行かないですぐに働きに出ました。仕事は米軍家族部隊のメイドでした。しばらく小禄の部隊に通い、その後佐敷のバクナービルに移りました。そこで働いているときに、同じ字の城間元盛と結婚しました。1948年のことです。
夫の元盛は私より2歳上です。ブラジル生まれの二世で、9歳のときに沖縄に帰されて、以来、親と離れておじいおばあと暮らしていました。その祖父母の名前は城間元助、カメです。しかし袒父元助は沖縄戦で亡くなり、私と知り合ったとき、夫は祖母と二人暮らしでした。
ブラジルの義父から夫に呼寄せの手紙がきたのは、1955年でした。そのころの沖縄はだいぶ不景気で、ペルーやブラジルなどに移民する人が多くなっていました。ちょうど私は4人目の子がお腹にいたので少し迷いましたが、夫が行く所ならどこまでも一緒にと思い、手続きをすすめました。親の呼寄せといっても旅費の送金はなく、私たちは自分たちの屋敷を売って渡航費用をつくりました。年が明けて1956年、正月早々に次男が生まれました。そしていよいよ3月、私たち夫婦に7歳の長女以下子ども4人そして祖母カメ、合わせて家族7人、オランダ船のテゲルベルク号で那覇港を発ちました。
45日間の航海で、同年5月にブラジルのサントス港に上陸、義父に迎えられ、サンパウロから飛行機でマットグロッソ州のカンポグランデに着きました。この町で一年間は、夫の兄元光がやっていた背広の仕立て屋を手伝いました。
その後私たちはカンポグランデの田舎に移り、土地を借りて野菜づくりをしました。そのうちにつくった野菜を馬車で町に運び、市場で販売するようになりました。6年ほどそれを続けていましたが、土地の立退きをきっかけに農業をやめ、肉屋を始めることになりました。これはうまくいって、今では二か所で営業しています。1962年には模合で資金をつくり、自宅を新築することもできました。
子どもは全部で9人(三男六女)生まれました。
私たち夫婦は小学校ぐらいの学問しかなかったので、子どもたちには、できるだけ大学まで行かせたいと思いました。長男は亡くなったのですが、みんなよくがんばってくれて次男が建築設計士、次女が美容院を経営し、三女と六女は歯科医師、ほかの子どもたちもそれぞれ会社勤めをしています。肉屋の方は、三男が夫と一緒にやっています。

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大分類 テキスト
資料コード 008454
内容コード G000000769-0003
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第293号(2001年12月)
ページ 3
年代区分 2000年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 2001/12/10
公開日 2023/12/15