なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史移民編聞き取り調査

「父たちの仏壇には私が花をそなえ線香をあげています。私が元気なうちはいいけれど、あとは誰がやるかなあ、と思います。」

ハワイ・ホノルル市在住初子・山城・玉那覇さん(83才)
私の父は佐敷町字津波古の出身で、山城兼作という名前でした。母は津波古のとなりの与那原町板良敷の出身で、名前はムタといいました。
父は、1907年(明治40)にハワイにきました。それから何年かたって(注・名簿では1912年)、母が呼寄せられました。私は四男五女、九人きょうだいの一番上で、1913年にハワイ島の砂糖キビプランテーションで生まれました。父が最初に移民してきたのが、ハワイ島だったのです。
そのあと私の家族は、オアフ島のカフクプランテーションに移りました。さらに父はより給料のいい所を転々としましたので、私たち子どもは何度も学校が変わりました。
ワヒアワに移ったのは1925年でした。父はそこで土地を借りて、野菜やいちご作りの農業を始めました。母もたくさんの子どもを育てながら、父と一緒に朝早くから畑に出ていました。そのとき私は六年生でしたが、家の手伝いをしなければなりませんでした。そしてハイスクールには行かずに、すぐに働くことになりました。
最初私はホノルル市に出て、白人の家庭で住み込み奉公をしました。私はホノルルで七年ほど働きましたが、1935年に大里村出身の玉那覇シゲルと結婚しました。夫も私もそのとき22歳でした。私たちは、友だちの紹介で知り合いました。
夫はパイナップルの工場で、メカニック(機械)の仕事をしていました。しかし、その後は会社をやめて独立し、自分で自動車修理の仕事を始めました。
私は結婚後はずっと家の仕事ばかりでした。
私たち夫婦は一男三女、全部で四人の子どもに恵まれましたが、息子は亡くなりました。三人の娘たちはみな元気です。
日米戦争が終って1957年ごろ、父たちはワヒアワからホノルルに越してきて、私の家のとなりに住むことになりました。そして近くのカリヒバレーに畑を買って、また野菜作りをしていました。でもそのころ父と母はもう年をとっていましたので、あまりたくさんはできませんでした。
父と母はアメリカの国籍はとらずに、ずっと日本国籍のままでした。アメリカの国籍をとるためには、英語がわからないといけなかったのです。けれども私の父たちはミー(私)とか、ユー(あなた)ぐらいしか話せませんでした。
1968年に母が79歳で亡くなったあと、1974年には父も亡くなりました。父は87歳だったと思います。
父たちの墓は、ヌアヌバリにあります。私たちの宗教は仏教の浄土真宗で、盆や年忌もここのスタイルでやっています。今のところ父たちの家が、私のすぐとなりなので、父たちの仏壇には私が花をそなえ線香をあげています。私が元気なうちはいいけれど、あとは誰がやるかなあ、と思います。
私は佐敷知念同志会には入らず、夫の出身地の大里村人のクラブに入っています。私は、海洋博の年の1975年に、生まれて初めて沖縄を訪問しました。馬天の山城シンエイは、私のいとこです。

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大分類 テキスト
資料コード 008454
内容コード G000000768-0007
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第292号(2001年11月)
ページ 4
年代区分 2000年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 2001/11/10
公開日 2023/12/15