「戦争中は激戦地ばかり歩いたが、けが一つせず無事に終戦を迎えた。
パラオに残っていたらどうなっていたか分からない。」
字手登根在住喜納秀三郎さん(80才)
私の生家は屋号チナーである。私は父喜納秀光と母ツルの次男として生まれたが、戦後チナヌメーの養子になった。養父は喜納秀行である。
私は佐敷尋常高等小学校の尋常科を卒業して、家で砂糖キビ作りを手伝っていたが、農家の次男、三男というのは先が見えている。将来のことを考えたら、どこか南洋に出稼ぎした方がいい。そう思って、いとこの喜納米吉らと那覇にあった移民のあっせん業者を訪ねた。徳田会社という会社だった。
そこで話が決まって、サイパンの南洋興発株式会社で働くことになり、1939年(昭和14)4月、那覇港から船に乗った。
サイパンでは、会社の直営農場で砂糖キビ作りの仕事をした。働いているのはほとんど沖縄県人で、夫婦者もいれば私のような若い独身者もいた。私ら若いのは一部屋4人の二軒長屋に寝起きしていた。
日給は一円二十銭で、沖縄よりよかった。
一年たったころ、パラオから来た人と知り合ったが、その人から「向こうの方が稼ぎがいい。ここで農業しても何もならない」と聞かされ、私もパラオに行こうと思った。しかし、島を移るためには退島証明(転出証明のことか)やら米の配給証やら、いろいろな訌明書が必要だった。そうとは知らず一度は移民係に連れ戻されたが、二度目はうまく逃げ出して、パラオ行きの船に乗ることができた。
パラオに行ってみると、海軍関係の仕事がたくさんあり、私はさっそく塚本組という請負業者のもとで働くことになった。港の整備から弾薬庫建設、陣地づくりなどの工事があり、そのためにパラオの島々の岩山に発破をかけ、岩石を採取していた。私は主に、その岩石をトロッコに積んで海岸まで運ぶ作業に当たっていた。発破をかけるのは大変危険で、けが人も多かった。爆発に巻き込まれて亡くなった人もいる。ペリリュー島(パラオの離島)では飛行場をつくっていたが、滑走路ができたあと、一時期私もそのペリリューに送られた。パラオの軍工事は夜勤も多かった。それで忙しいときには、日給が三円八十銭にもなった。月給にすると百円から百三十円はあった。こんなに稼いだが、私は家に送金した記憶はない。引揚げてくる途中で使ってしまい、金はあまり残らなかった。
パラオに行って二年目の1941年(昭和16)、私は満20歳になった。本来ならば徴兵検査を受けるのだが、南洋辺りに移民していた人は延期願いを出すことができた。この書類は南洋庁のはんこを押してもらい、冲縄連帯区司令部に送っていた。
私は延期願いを二度出したが、三回目の通知がきたときはその手続きをとらなかった。どうせどこにいても死ぬんだから、親きょうだいのいるところで死んだ方がいい、と思った。
1943年(昭和18)の末、第七次ソロモン海戦のころだったと思うが、私はニューギニアから内地に帰還する船に乗って、パラオをあとにした。その年の大晦日には、広島に着いた。それから鹿児島に下って、沖縄行きの船を待った。
沖縄に帰ってきて、しばらく読谷の飛行場づくりに徴用された。十・十空襲後、東風平の野戦重砲隊に入隊した。戦争中は激戦地ばかり歩いたが、けが一つせず無事に終戦を迎えた。パラオに残っていたらどうなっていたか分からない。サイパンにいた姉一家は、向こうでみな亡くなった。一家全滅である。
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大分類 | テキスト |
資料コード | 008454 |
内容コード | G000000767-0006 |
資料群 | 旧佐敷町(佐敷村)広報 |
資料グループ | 広報さしき 第291号(2001年10月) |
ページ | 4 |
年代区分 | 2000年代 |
キーワード | 広報 |
場所 | 佐敷 |
発行年月日 | 2001/10/10 |
公開日 | 2023/12/15 |