なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史移民編聞き取り調査

「子どもの私たちも家の手伝いをしたり、また山に行って松の木を切り倒し、畑の外枠に
するためのピンを作って売りました。」
ハワイ・ホノルル市在住上運天先定さん(73才)
私は1928年生まれのハワイ二世です。両親は日本人ですが、ハワイで生まれたので、私の
国籍はアメリカになっていますよ。父の名前は上運天先夫で、母はカマと言いました。
私の家族の歴史は、まず祖父母のことから話さなければなりません。先にハワイに来たの
は祖父だからです。祖父の出身地は、沖縄県佐敷町字新里の桃原ヤードゥイです。祖父上
運天先順と袒母ツルには二男二女の子どもがいました。私の父の先夫は、長男でした。
祖父は1908年ごろ、家族を残してハワイに来ました。祖父はハワイ諸島の中のカウアイ島
で、砂糖キビのプランテーションの仕事につきました。そして1910年に父の弟の先徳を呼
び、1913年には私たちの父先夫をハワイに呼び寄せました。そのとき父は16歳でしたね。

父は祖父と同じカウアイ島に来て、マック・ブライデ・シュガーカンパニーという会社に
入り、やはり砂糖キビ作りの農業に従事しました。そして1918年8月、ピクチャーブライ
ド(写真結婚)で、沖縄から私たちの母カマ(旧姓瀬底、与那原町当添出身)を呼び寄せたので
す。父母ともに同じ年ですが、そのとき二人は21歳でした。
母がハワイに来て翌年の1919年、長男先邑が生まれましたが、その長男は満一歳五か月で
亡くなりました。子どものころに亡くなったのも数えると、私たちは全部で15人きょうだ
いでした。上から順々に名前をあげると、長男先邑(一歳で死亡)、次男先助、長女ツル子
、三男先次、四男先喜、次女ヨシ子、五男先定、六男先松、七男先明、八男イサム、九男
ミノル(三か月で死亡)、十男トーマス(日本名マサル)、十一男スタンリー(同ヒロシ)、十二
男ジョージ(同タケシ)、十三男マービン(同カツミ)となっています。
マービンは母が46歳のときの子どもです。お産はキャンプ内の自宅に最初のころは、内地
の人の産婆さん(助産婦)がきていたそうです。あとからはそれも呼ばずに、父がお産の介
助をしました。でも最後のマービンだけは、病院で生まれました。彼の名前はそのときの
ドクター(医者)の名前です。下の二人はシーブングヮー(おまけ)、と言って母はいつも笑っ
ていました。母はとても元気で、家事をこなしながら朝早く起きて豆腐をつくり、それを
売っていたのです。
私たちはキャンプの長屋に住んでいました。父はプランテーションの仕事のかたわら、会
社から土地を借りて野菜を作りました。農作物は仲買人に売っていましたが、セリや大根
、芋類などいろいろ出荷した中で、ゴボウが一番もうかりました。
子どもの私たちも家の手伝いをしたり、また山に行って松の木を切り倒し、畑の外枠にす
るためのピンを作って売りました。アルバイトですね。
私は1947年にハイスクールを卒業し、専門学校でメカニックの勉強をしたあと、48年3月
に空軍に志願して入隊しました。日本の敗戦で両親はいろいろと心配していたので、私は
最初自分が志願することは誰にも言えませんでした。
除隊後はホノルルで専門学校に入り直し、電気の仕事につきました。具志川市出身二世の
大城マツエと結婚したのは1955年でした。

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大分類 テキスト
資料コード 008454
内容コード G000000766-0006
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第290号(2001年9月)
ページ 4
年代区分 2000年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 2001/09/10
公開日 2023/12/15