なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

証言 佐敷町史移民編聞き取り調査

「私の若いころは、学校を卒業したら紡績工場で働くと言って、14、5歳から内地(本土)に
行くのがほとんどでした。」
字佐敷在住 小谷静さん(82才)
私の生まれは、字手登根です。字佐敷の人の嫁になって来ています。
実家の屋号はイズミグヮーメー。両親の名前は、玉城源助、カマと言います。きょうだい
は二男三女で、合わせて五人でした。私は一番下です。五人のうち、長男は30歳くらいで
亡くなって、次女姉はブラジルに移民し、向こうで今も元気です。一番上の長女姉と私は
、年が20も離れていました。この姉は金城ウシという名前で、ずい分長生きしましたが、
五年前に98歳で亡くなったんです。
私の若いころは、学校を卒業したら紡績工場で働くと言って、14,5歳から内地(本土)に行
くのがほとんどでした。募集人があちらこちら回って、紡績に行きたい人を探していまし
た。家にいても農業の手伝いだから、私も学校を卒業したら行きたかった。だけど親はど
うしても、内地には行かさない、と言って反対していたんです。
そうしているときに、大阪にいた義兄(長女姉の夫)が子どもを面会させに帰ってきていま

した。それで私も意地をはって義兄に頼み、一緒に連れて行ってもらうことになりました

向こうに着いてしばらくは、堺の長女姉の家に居候しました。仕事はゆっくり探しなさい
、という言葉に甘えておりましたら、突然私をたずねて同じシマの知り合いが姉の家にや
って来ました。その人は私より3,4歳上の人でしたが、自分も大阪で働きたいと、住所だ
けを頼りに来たわけです。姉夫婦の厚意でその人もしばらく私と一緒にいることになりま
した。
でもいつまでも遊ぶわけにはいきません。私はその人と二人、姉の家を出て、和歌山の和
歌山紡績中ノ島工場という所に行きました。ところがそこで一、二か月働いていると、義
兄が心配して迎えに来たので、また堺に戻ってしまいました。
堺には、福島紡績という大きな会社がありましたよ。でもそこは新前はとらないと言って
いました。
その後私が勤めた所は姉の友だちが紹介した、大和川紡績という会社でした。姉の家から
近かったけれど私は寮に入りました。
寮は16人一部屋で、ほとんど沖縄の人でした。
私のように若い人から年とった人まで。同じ沖縄でも国頭の人の方言は、よく分からなか
ったです。仕事はリングの方に回されて、先輩の見回りさんにも助けてもらって何とかや
っていたんですけどね。
紡績という所は綿ぼこり、ゴミがひどいわけです。
やっぱり仕事もきついから、そのうち生理不順になってしまいました。「ここは水があわ
ない。体をこわさないうちに帰ろう」と、姉とも相談して、それで二か年ぐらいで帰って
来てしまいました。給料は少ししかもらってなかったですが、親戚にタオル一枚ずつとか
石けんとか、おみやげを買って来ましたよ。
自分の着物も少しは買えました。
帰郷後、私は19歳で字佐敷の津波友信と結婚し、二男二女の子どもができました(長男は七
か月で死亡)。ところが昭和19年(1944)、私たちは内地疎開、夫は防衛隊。宮崎県鞍岡の山
の中で二年間過ごしましたが、終戦の年に1歳の次女を亡くしてつらかったです。そして
帰ってきたら夫も戦死していました。
その後私は縁あって、小谷森亀と再婚しました。子や孫たちもたくさんできて、今は幸せ
です。

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大分類 テキスト
資料コード 008454
内容コード G000000764-0004
資料群 旧佐敷町(佐敷村)広報
資料グループ 広報さしき 第288号(2001年7月)
ページ 4
年代区分 2000年代
キーワード 広報
場所 佐敷
発行年月日 2001/07/10
公開日 2023/12/15